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710.なぜ空港建設地に成田を選んだのか?

佐々木希 2017 ウェディングドレス 7
↑画像 2017ジューンブライド・ウェディングドレス2 佐々木希

(1)成田山新勝寺のルーツ

 この記事は「709.共謀罪法成立が2017年6月15日7時46分だったのはなぜか?」の続きです。709はこちら

 10世紀、京都の天皇家による過酷な搾取に喘ぐ現在の関東地方に該当するエリアの民衆にとって平将門はヒーローだった。平将門について「388.神社が災害に遭う確率が低いのはなぜか?」で取り上げている。388はこちら

 平将門は京都の天皇家に反旗を翻した。「平将門の乱」である。その平将門を殺害する為に呪詛が決行された。これが成田山新勝寺のルーツです。平将門に「新たに勝つ寺」というわけです。ですから平将門を祭る神社の氏子は新勝寺に行きません。私は平将門を祭る神社の氏子ではありませんが新勝寺に行きません。

(2)成田は呪詛タウン

 その様な呪詛をルーツとする新勝寺がある千葉県成田市は709の(1)に書いた通り、クロカモの拠点都市といわれている。また成田公安は一般の公安とは別組織である。

 更に709の(2)に書いた通り、呪詛の現代版・電磁波が、寺社のすぐ近くや寺社を見下ろす位置に敷設されている携帯中継局や電波塔から時として発射される。まさに成田は呪詛タウンなのです。709はこちら

(3)口封じの歴史・高天原山事変89 なぜ空港建設地に成田を選んだのか?

 こうした状況があるから、成田に空港が建設されたのではないでしょうか? 高天原山事変<日航123便撃墜事件>はかなり前から計画されていました。結果としては羽田空港発の便が舞台となりましたが、成田空港発の便が舞台となる可能性もあったはずです。

 新たな空港を関東地方に建設しようとした段階で、高天原山事変<日航123便撃墜事件>と呼ばれる事になる事件を首謀者が計画していたとしたら、呪詛タウン成田はBESTな地です。


(4)口封じの歴史・高天原山事変90 松永安左エ門の提言

 「563.長崎原爆を地上起爆させたのは江本文政か松永安左江門か?」で松永安左江門を取り上げた。563はこちら。当時の財界実力者である松永安左エ門(私設シンクタンク産業計画会議議長、電力中央研究所理事長)が、1964年3月4日に『新たな東京国際空港』の開設を提言した。

 長崎原爆を地上起爆させたかもしれない人物が提言している事に注目しよう! 高天原山事変<日航123便撃墜事件>には核兵器が使用されている。

 1985年のこの悲劇は1940年代から続く日本の核開発史の中に位置づけるべきです。長崎原爆を地上起爆させたかもしれない人物が新空港を提言している事から、1985年の悲劇は成田空港発の便が舞台となる可能性があった事がより強く感じられる。


(5)成田空港建設迄

https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n250977?__ysp=5oiQ55Sw56m65riv5bu66Kit44Gu57WM57ev

 <転載開始 一部修正>当時の運輸省は1965年6月1日に成立した「新東京国際空港公団法案」をもとに「新東京国際空港」として新東京国際空港公団を中心に新空港を建設するための候補地の検討に入った。

 千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や印旛郡富里村(現・富里市)、茨城県霞ケ浦、横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地などが候補地とされ、様々な観点から検討が行われた結果、当時の自由民主党副総裁で、「政界有数の実力者」と言われた川島正次郎の地元の千葉県富里村が建設予定地とされた。

 しかし、それは富里村全体を廃村にするということを意味していた(当初の新東京国際空港の面積は現在の成田空港の2倍、それは富里村全体の面積に匹敵する)。当然、富里村は空港の建設に強硬に反対、用地買収などをめぐり地元自治体との調整は難航した。

 1966年7月4日、佐藤栄作内閣(中村寅太運輸大臣)は、建設予定地を富里の隣接自治体の成田市三里塚に変更することを閣議決定した。

 これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林が予定敷地の4割を占め、周辺の土地は開拓農民(その多くは満州からの引き揚げ者)の所有であったため、金さえ積めば農民は容易に土地を手放すだろうと考えたためである。

 しかし、三里塚・芝山一帯の開拓農民にとってこれは寝耳に水の話だった。彼らの多くは戦後に成田の原野を自分達で開拓して農地を切り開き、開拓20年を経てやっと農家として経営が軌道に乗った段階だった。

 しかも佐藤栄作内閣は事前に成田市には何の説明もなく新空港建設を閣議決定したため、地元住民はある日突然補償金を受け取り立ち退くよう求められた。

 当然、地元農民の一部は買収に伴う移転や騒音問題から空港建設に猛烈に反発し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し反対活動を開始した。最初はデモ行進を行う程度の反対運動だったが、当時大学などで学生運動などを主導していた新左翼がこれに呼応し、全国から活動家が集結、次第に過激化・大規模化・ゲリラ化していった(三里塚闘争)。

 空港反対同盟の反対運動により用地買収は停滞したため、政府は土地収用法に基づき行政代執行を1971年に2回行い、1期工事の用地を取得した。

 この際、警備の警察官3名が反対派による襲撃を受け殉職した(東峰十字路事件)。また、反対派は鉄塔を建てて対抗したが、1977年5月6日に撤去された。これに抗議する集会で反対派と機動隊が激突し、学生1名が死亡した。また同年、5月6日に芝山町長宅警官詰め所が襲撃され、警察官1名が殉職した。

 開港4日前にあたる1978年3月26日、反対派ゲリラが新東京国際空港の管制塔に乱入し管制塔内の機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)ため、開港が5月20日まで延期となった。<転載終了>

 その頃、久米宏が担当するTBSラジオの土曜ワイドラジオTOKYOで「開港か廃港か 成田空港」という特集が組まれた。

(6)千葉県成田市に存在する巨大地下サイト

 千葉県成田市には巨大地下サイトが存在する。これも空港建設地に成田が選ばれた理由の一つかもしれない。

http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/96926ec98c1ccd226494a0d6d6bd25da

(7)皇族の使用を想定して建設されたといわれる防空壕

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↑画像 皇族の使用を想定して建設されたといわれる防空壕 千葉県成田市

 千葉県成田市三里塚御料の三里塚記念公園に、皇族の使用を想定して建設されたといわれる防空壕がある。市が展示施設として整備、2011年4月から一般公開していて、「貴重な歴史遺産であると同時に観光拠点として大勢の人が見学に訪れてほしい」(公園緑地課)と期待している。

 市によると、同公園は宮内庁の御料牧場が成田空港の建設に伴い栃木県に移転した後、跡地の一部(2・9ヘクタール)を財務省から無期限で無償で借り、同市が整備して1969年に開園した。
 
 防空壕は、子供の頃、太平洋戦争前後から内部に入って遊んだという地元の人の話から存在は知られていたが、公園が市に移管された後、入り口が封鎖され、詳細は不明だった。宮内庁によると、この防空壕に関する資料は同庁では見つかっていないが、建設会社「間組」(東京都港区)が1989年に発行した百年史に「1941年に宮内省から受注し、皇族用に施設を作った」という記述がある。

 市は住民からの要望を受け、2008年10月から調査を開始。厚さ約3メートルの盛り土の下に、「H形」の空間が掘られ、中央に厚さ60センチの強固なコンクリートに囲まれた主室(高さ2・5メートル、幅2・5メートル、奥行き4・5メートル)や爆風逃がしの換気口などがあることが明らかになった。市は2010年度、約1800万円の予算で出入り口に小屋を建て、案内表示や室内に照明を整備した。
 
 「三里塚の歴史を伝承する会」の新島新吾さんは、地元の人から証言を集めたところ、終戦後間もない時期に主室に畳が敷いてあったり、ジャガイモが備蓄されたりしていたのを見たという人がいたという。新島さんは「戦争があったことを伝える貴重な資料として、次の世代に残していくことが大切」と話している。

 2011年4月1日の公開後、県内外の歴史愛好グループなどを中心に約1000人が見学した。市公園緑地課では「周辺にある空港の見える公園や航空科学博物館と合わせた周遊観光の拠点として期待したい」としている。(2011年6月20日08時50分 読売新聞)

 巨大地下サイトはこの防空壕を母体として建設されたのだろうか?

↓動画 乃木坂46 Behind the Stage in 4th Year Birthday Live
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