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8149.初代国鉄総裁・下山定則氏を乗せた大西政雄運転手は共犯者側

(1)本日7月5日は、下山事件下山定則氏の事実上の命日です。

 {383.下山事件に白洲次郎が関与したのか?}と{8148.福田元昭動画174 福田元昭トークSHOW28 狭山事件2}などの続きです。最近UPされた記事の多くがいいね0の状況です。拡散の為にご協力賜れれば幸いです。

 正式の死没日は1949年7月6日とされていますが、本日7月5日は、下山事件の下山定則氏の事実上の命日です。1949年6月1日、日本国有鉄道(国鉄)が発足した。兵庫県神戸市出身の下山定則氏は、その国鉄初代総裁に就任した。1949年7月1日には、国鉄発足前日に成立した行政機関職員定員法に基づき、空前絶後の職員約10万人の解雇を決定、同4日には組合側に、第一次整理の3万700人を通告した。

 しかし、翌5日に三越日本橋本店に入った後に消息を絶ち、捜索願いが出されたが6日未明に、東京都足立区の常磐線と東武伊勢崎線が交差する付近で、轢死体となって発見された。行方不明および死亡の理由は不明であり自殺説、他殺説両方が飛び交った。なお、下山の死を受けて副総裁の加賀山之雄が総裁代行に就任し、同年9月24日に正式に総裁となった。


(2)下山総裁専属運転手・大西政雄氏

 下山総裁専属運転手・大西政雄氏<事件当時48歳>の1949年7月5日の足取りは、下山総裁を三越日本橋本店前で降ろす迄は、報道されている通りで正しいと考えられます。降ろして以降は、車載型の映像記録装置であるドライブレコーダーがない時代故、疑う必要があると私は以前から考えていました。国鉄自動車主任木村守衛外数名の捜査による結果、大西は真面目で家族は、妻初子36歳のみで、外同居人従弟恭八郎28歳他1名いて、生活は普通で思想関係は認められないとの記録が残っています。

(3)デクラスが進む下山事件

 各方面で少しずつデクラスが進んでいます。この下山事件もそうです。今年2023年2月3日、読売新聞は「迷走した公用車、運転手の証言は真実なのか…下山事件の謎に迫る【5】」という記事を出しました。

 <転載開始>初代国鉄総裁・下山定則(当時47歳)が死亡した1949年の「下山事件」では、公用車で出勤途中だった下山が行方不明になる直前、丸の内や日本橋、神田周辺の狭いエリアをグルグル巡ったと伝えられている。街角に防犯カメラなど付いていなかった時代、「迷走」とも思える公用車の走行ルートを裏付けるものは、ハンドルを握った大西政雄運転手(当時48歳)の証言だけだ。大西の言葉は、本当に信じていいのか。東京地検の捜査報告書とみられる足立区立郷土博物館所蔵のガリ版資料と、警視庁捜査一課の捜査報告書とされる「下山白書」には、いずれも大西証言に基づく下山の事件直前の行動が記録されている。その内容を詳しく比較し、考察してみよう。

(4)複雑な走行ルート

 まずは、下山が行方不明になった7月5日の公用車ドライブから。誰かを探し回っていたのか、それとも尾行にでも気づいてまこうとしたのか。きわめて複雑な走行ルートで、意図の見えない公用車ドライブだと、改めて感じてしまう。下山白書には、次のように記されている。

 午前8時20分頃、下山は大田区上池上の自宅を出発した。御成門を通り、東京駅前ロータリー付近で「買物がしたいから三越へ行ってくれ」と大西に指示する。東京駅北側の呉服橋ガード付近に来ると「白木屋でもよいから真直ぐに行ってくれ」と指示を変えた。白木屋前まで来ると、開店前だったので、そのまま三越本店へ行った。三越も開店前だったために通過し、国鉄本社に向かったが、今度は「神田駅に廻ってくれ」と指示する。神田駅まで来ても下車せず、大西が再び国鉄本社を目指していると、「三菱本店へ行ってくれ」。千代田銀行(財閥解体で三菱銀行から名称変更)に着くと、20分ほど立ち寄った。そして「今から行けば 恰度ちょうど よいだろう」と三越へ向かい、午前9時37分頃に到着。下山は南口から店内に入り、そのまま行方不明になった。<転載終了>

(5)初代国鉄総裁・下山定則氏を乗せた大西政雄運転手は共犯者側

 柴田哲考氏の「下山事件 ー最後の証言」は、祖父の名を利用し、亜細亜産業のリーダー矢板玄(やいたくろし)に会い、一回かぎりのインタビューを試みた内容をベースにした力作です。

 あまりにもニセ情報が多いこと。それが、下山事件の見逃せない特性だ。事件には、後からつけ加えられた「怪情報」があまりにも多い。それらの一つひとつを丹念に吟味していけば、意図的になされた情報リークに共通する「シナリオ」が透けて見えてくる、と著者はいう。それは、自殺説を補強する証言であることがしばしばだ。この著作によれば、初代国鉄総裁・下山定則氏を乗せた大西政雄運転手は共犯者側だという。大西政雄運転手が午前9時37分頃に下山定則氏を降ろして、総裁が三越から出てくるものと思って何と午後5時迄、駐車場で待っていたという話は不自然です。普通ならもっと前に異変だと考えるのではないか。 大西運転手は副総裁の加賀山之雄が送り込んだスパイだという説があります。



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