661.中華人民共和国は、本当に情報統制国家なのか?

2017 桜 欅坂46平手友梨奈
↑画像 2017年桜シリーズ7 欅坂46 平手友梨奈

(1)2017年の「報道の自由度ランキング」間もなく発表!

 間もなく国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)が、2017年の「報道の自由度ランキング」を発表する。

 日本は10年には11位だったが、年々順位を下げ、14年59位、15年は61位、16年は72位だった。2017年は更に順位を下げる事だろう。

 「国境なき記者団」はかねて、取材の方法しだいで記者も処罰されかねない特定秘密法に疑問を呈してきた。14年12月に同法が施行された後、メディアが自主規制に動くのは、「とりわけ(安倍晋三)首相に対してだ」とした。


http://www.asahi.com/articles/ASJ4N0SHDJ4MUHBI02M.html

(2)2016年の「報道の自由度ランキング」ワーストCHART

 2016年の報道の自由度ランキングの対象となったのは180ヶ国です。つまり180位の国がワースト1に輝いた国です。

http://ecodb.net/ranking/pfi.html

1位<180位> エリトリア 前年2015年と変わらず堂々のワースト1に輝きました!

エリトリア
↑地図 エリトリア

イサイアス・アフェウェルキ大統領
↑画像 エリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領

 エリトリアは1991年5月29日にエチオピアからの独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。独立以降、ずっと同じ大統領。憲法が施行されていないし、選挙もない。

 憲法には、大統領の任期は5年とあるのですが、そもそも憲法が施行されていないのでそんなものは何の意味もない。

 イサイアス・アフェウェルキは、「今後も大統領を続けていくつもりだし、選挙は決して行わないだろう」と述べています。

 国連が「法ではなく恐怖が支配する国」と表現するほどの人権侵害が行われている。その為、大量の国民が国外に脱出して国際的な難民問題になっている。
 

 いやー、この実態ですから、文句なしの1位ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2

https://matome.naver.jp/odai/2143398239920597801

2位<179位> 北朝鮮 前年2015年と変わらず堂々のワースト2に輝きました! この国の実態はご存知でしょうから、説明の必要なしですね。

(3)「中央アジアの北朝鮮」と言われているトルクメニスタン

3位<178位> トルクメニスタン 前年2015年と変わらず堂々のワースト3に輝きました! 検索エンジンに「トルクメニスタン」と入れると、「地獄の門」と言う付属語がTOPに来ます。

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↑画像 トルクメニスタンの地獄の門

 実はトルクメニスタン、国連で承認されている永世中立国です。

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↑地図 トルクメニスタン

 西側をカスピ海に面し、イランとアフガニスタン、ウズベキスタン、カザフスタンと国境を接する国、トルクメニスタン。個人崇拝と鎖国状態で「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれてきたトルクメニスタンでは、これまでほとんど海外のメディアが入国を許されなかった

 そんな中、日本の報道番組として初めてテレビ東京に取材許可が下りた。2014年10月6日放送の「未来世紀ジパング」は、池上彰をナビゲーターに迎えてトルクメニスタンを紹介した。番組MCのSHELLYが行った現地取材では、常に政府の役人が監視の目を光らせ、突然撮影中断を命ぜられる緊迫感もあったが、意外にも開放路線へ向かっているという。

http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/backnumber/20141006/

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↑画像 トルクメニスタンの首都・アシガバードのニヤゾフ元大統領像

(4)トルクメニスタン 「報道の自由度ワースト3位」から脱却中!

 首都のアシガバートで国民に話を聞くと、「(この国に)直すべきところなんかないわ。ここは世界一の街なんだから」「尊敬する大統領様の健康を祈っています」と、大人から子供まで大統領への尊敬と感謝を語る。

 アフリカ北東部のエリトリア、北朝鮮に次ぐ「報道の自由度」ワースト3位とされるトルクメニスタン。現地の書店で目立つのは大統領関連の本ばかりで、スポーツ新聞ですら1面トップは大統領を讃える記事だ。国営テレビ局を取材した際、「自由に報道できないのですか?」と切り込むと、局の女子アナはこう答えた。

 「いいことばかり放送していると言われますが、世の中は悪いニュースであふれています。私たちは国民に明るいニュース、政治・経済・文化などあらゆる面での成功と偉業を伝えたいのです」

 悪いニュースを報道しないことが普通であり、社会にとって必ずしも良くないことだと気づいてない様子だったとSHELLYは驚いていた。

 世界一の屋内観覧車など、「世界一」にこだわった建造物や金色に輝く大統領像などは、ニヤゾフ元大統領が作ったものだ。極端な独裁政策を推し進めていた2006年に突然亡くなり、2代目のベルディムハメドフ大統領は徐々に開放路線へ向かっているという

 トルコやロシアの衛星放送が娯楽として認められ、外国の芸術やインターネットも一部を除き解禁。それまでは「地方に図書館は必要ない」と廃止、「病気になったら首都に来ればいい」と首都以外の病院が閉鎖されていたが、それも解禁になった。

★富の源泉はガス田。「日本ブーム」の兆しも

 厳しい言論統制があるとはいえ、国民の暮らしぶりは豊かだ。400平米の豪華マンションに住むある家庭は、六男三女の子だくさん。平均的な収入という主人はこう話す。

 「電気・ガス・水道は無料です。このマンションも1億円以上するでしょうけど、私は1円も出していません。タダでもらったものです」

 全国民が医療費無料、学費も大学まで無料、さらに子どもが8人以上いる家庭には「エリートハウス」が無償提供されるというのだ。富の源泉は2006年に発見された、東部のガルキニシュガス田。埋蔵量は世界で第4位の規模だ。

(5)なぜシリアが4位なのか?

4位<177位> シリア

 アサド政権のシリアは、中東諸国で最も自由で経済的にもうまくいっているのになぜ4位なのか?

 1920年にイラクとの王制(大シリア)を倒したのはフランスでした。現在のシリアの地は一時期フランスの植民地になりました。1946年に独立し、エジプトとの合併後、1961年に再独立しました。

 アサド(父)政権は、1971年に大統領に民主的選挙により選出され、2,000万人強の国民を飢えさせる事も無く、善政を行って来ました。

 2000年には、アラブの盟主である父の後を引継ぎ、アサド氏(子)は、民主的選挙により選出され、大統領に就任しました。

 アメリカやユダヤ金融資本にとって都合の悪い国は、西側マスコミから悪者扱いされます。

 イラクにおいても、フセイン氏が善政を行ってきたにも関わらず、有りもしない大量破壊兵器を口実に、石油利権を狙ったロックフェラーと子分のブッシュがイラク侵攻を行い、フセイン氏に対して処刑と言う名の殺害をしました。

 リビアに対して、アラブの春と銘打った一連の政変を利用して、米英仏による軍事介入を行い、サルコジ配下のフランスの特殊部隊により、善政を行ってきたカダフィー氏は殺害されてしまいました。

 フセイン、カダフィー両氏亡き後は、中東でアメリカやユダヤ金融資本にとって都合の悪い国はイランとシリアのみになっています。

 そこで現在は、シリアを悪者に仕立て上げ、侵略戦争を推進しているのです!


607.アメリカのケリー国務長官が「アメリカは、シリアのアサド政権を打倒するためにテロ組織ISISを結成した。」と発言した事実を地球人の多くが知ったら地球はどうなるか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-830.html

568.戦争中のシリアが無料の教育と医療を維持しているのに、戦争をしていない日本が無料の教育と医療を実現できないのはなぜ?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-790.html

(6)インターネットの敵

5位<176位> 中国

 これも納得できない順位です。『世界報道自由ランキング』を発表している国境なき記者団は、ネット検閲が激しいとされる国である『インターネットの敵』も発表している。

 『インターネットの敵』として挙げられた国は、アメリカ合衆国や中華人民共和国など19カ国です。後述しますが、中国が入っているのが納得できません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%A8%98%E8%80%85%E5%9B%A3#.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A0.B1.E9.81.93.E8.87.AA.E7.94.B1.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.AD.E3.83.B3.E3.82.B0

(7)中華人民共和国は、本当に情報統制国家なのか?

 検索エンジンに「中国 情報」と入れると、付属語のTOPに「情報統制」が出てくる。それをクリックすると、TOPに「中国のネット検閲」が出てくる。中華人民共和国は、本当に情報統制国家なのか?
 
 実は日本人が書いた「日本の情報公開度は中国以下」なんて記事がweb上にある。

http://vergil.hateblo.jp/entry/20131027/1382837435

(8)毛沢東の人生

 毛沢東は1893年、清国湖南省湘潭県韶山村に生まれた。毛沢東は成長し、康有為や梁啓超らの思想を学び影響を受けた。1911年春、毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。この年に勃発した辛亥革命では、湖南の革命志願軍に入隊した。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

 1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学した。1913年春、湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋、湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東はアダム・スミスやシャルル・ド・モンテスキューなどの社会科学系の書物に触れた。

 ロシア革命が起きた1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。1917年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に、最初の論文となる「体育の研究」を発表した。

 師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちとともに新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。

 1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。1919年の五・四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀、胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。

 翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしていて、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年、楊の娘で学友の楊開慧と結婚し、後に岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。

(9)華国鋒は毛沢東の隠し子だった!

 毛沢東が1920年に長沙で共産主義の小さなグループを立ち上げた時、姚という姓の女性と知り合った。彼女の父親は山西省から湖南省に煙草を売りに来ていた商人だった。1921年、姚氏と毛沢東との間に後に華国鋒と呼ばれる事になる男の子が生まれた!

 姚氏は後に華国鋒と呼ばれる事になる男の子を生んだ2年後に病死した。毛沢東は親戚に姚氏との間に生まれた後に華国鋒と呼ばれる事になる男の子を預け、育ててもらうことにした。

 その後に華国鋒と呼ばれる事になる男の子は山西省太原に送られ、さらに交城に移り住んだ後、親戚の姓である「華」をとって、華光祖と名乗った。抗日戦争勝利後、華成武と改名し、解放戦争初期には華国鋒と改名した。

 抗日戦争に参加し、その時所属していた「中抗日救隊」が彼の名前の由来だ。

(10)その後の毛沢東

 1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席した。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。

 毛沢東は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊した。第一次国共合作が破れ、中国共産党と中国国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月、蒋介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返された。

 井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。

 国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始した。

 毛沢東は1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続けた。同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握した。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築した。

 1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙した。

 1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。

(11)中華人民共和国建国

 日本の敗戦の翌年・1946年6月26日、蒋介石は国民革命軍(中華民国の正規軍、実質的には国民党軍。)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令し、国共内戦が始まった。

 国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。

 1949年2月、中国共産党第七回党大会第二回中央全体会議の後、周恩来は政治局会議において山西省交城県県委員会書記である華国鋒を北京市軍事管制委員会に異動させた。しかし毛沢東はその異動に同意していなかった。毛沢東は「革命は未だ勝利せず、全中国も解放されず、さらには多くの処理すべき事がある。そうした中で自らの縁者を首都に連れてくることはできない」という意見だった。

 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。

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↑画像 建国宣言を朗読する毛沢東 1949年10月1日

(12)毛沢東と華国鋒

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↑画像 毛沢東

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↑画像 毛沢東の息子・華国鋒

 1950年代初頭、毛沢東は華国鋒に故郷で任務に就くよう言い渡し、湖南省湘潭の書記にした。毛沢東は9回にわたる湖南省あるいは長沙訪問時、湖南省共産党委員会に命じて華国鋒と会見していた。中南局第一書記の陶鋳と湖南省書記の張平化も、華国鋒を気遣っていた。

 1950年代後半から中ソ対立が深刻化していった。1958年に毛沢東は大躍進政策を発動した。農村では「人民公社」が組織された。1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。

 毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。

 文化大革命が始まった1966年春、毛沢東の指示により周恩来、康生と汪東興を通じて北京にて華国鋒と初めて彼の出生について意見を交わした。この時から華国鋒は自身が毛沢東の長子であることを認識するようになった

 1968年、華国鋒は湖南省委員会の第一書記となり、省の改革委員会主任となった。

 毛沢東は湖南に帰るたびに常に華国鋒をそばに置いた。華国鋒は毎年、直接毛沢東主席に地方の仕事を報告するという名目で、北京へ2,3回は行っていた。1971年の林彪事件後、毛沢東は華国鋒を北京に呼び、政治局委員、副総理、公安部長にした。さらに毛沢東は華国鋒を政治局常務委員会の会議にも出席させた。

 1976年、毛沢東が危篤になった際、本当に毛沢東の感情を動かせることができたのは華国鋒ただ一人だった。華国鋒は毛沢東のベッドの前に立った時、政治局常務委員の一人ではなく、人の子としての孝道を尽くそうという気持ちを止めることができなかった。

(13)華国鋒のその後

 毛沢東が死去した後、中国の最高指導者となった華国鋒は、1976年10月6日、文化大革命の主導者であった江青や張春橋らの四人組の逮捕を指示した。これにより、毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させた。1976年11月には毛主席紀念堂を着工させた。

 1978年12月に行われた第11期3中全会で、中国共産党のトップとしての実権を鄧小平に奪われた。その後も、2002年11月に引退するまで中国共産党中央委員を務めた。2008年、華国鋒は逝去した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%9B%BD%E9%8B%92

(14)華国鋒の中国共産党幹部に対する批判

 華国鋒は失脚したのちも臆することなく党幹部を批判することで有名だった権力闘争にあけくれ、国土が荒廃し、人民が苦しんでも知らん顔、自分たちはブルジョアな生活を送る幹部に対して、「中国共産党の正当な担い手は農民と労働者ではないか」「権力を掌握した後、いったい中国共産党は何をしたのか。腐敗、利権、人民への圧政、司法の独断運用、人権無視、権力の乱用ぶりを目撃していると、嘗ての国民党を同じであり、現在の国民党のほうはもっと進歩しているではないのか。」などと痛烈な批判を展開した。

 胡錦濤に対しても次のような書翰を送った。「いまの共産党は腐り切っている。利権をむさぼるだけの政党に成り下がって、その改革も出来ない胡錦濤よ、権力を手放して党から去れ。」

 これほどの発言をしても殺されなかったのはやはり毛沢東の子だったからだろう。

(15)ウィキペディア中国語版に

 実は、華国鋒が毛沢東の隠し子だったという話はウィキペディア中国語版に掲載されている。

 日本版ウィキペディアには、その事実は隠蔽されている。その隠蔽の事実から考察しても、「日本の情報公開度は中国以下」なのかもしれない。


http://www.wenxuecity.com/news/2008/08/23/685456.html

↓動画 千葉県館山市 AKB48<当時> 前田敦子 「会いたかった」PV
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https://rutube.ru/video/4cab87399d37609332a9443b4e83096e/
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