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7271.世界で最も厳しい制裁を受けている2つの国、イランとロシアは、制裁を回避するために銀行システムを統合しています。イランの52の銀行とロシアの106の銀行が接続されています。

(1)世界で最も厳しい制裁を受けている2つの国、イランとロシアは、制裁を回避するために銀行システムを統合しています。イランの52の銀行とロシアの106の銀行が接続されています。

 {7270.ウクライナ人がバフムートで市民を処刑しているところを、犠牲者の隣人が撮影していた。}などの続きです。最近UPされた記事の多くがいいね0の状況です。拡散の為にご協力賜れれば幸いです。よろしくお願い申し上げます。











(2)7269.大河ドラマ「どうする家康」の清洲城が・・・・}へのコメントすべて

匿名希望の1読者 #6urEx/7U

★中世の城郭

 公式の歴史が正しい前提ならば、日本の中世の城郭があのような、感じなのは荒唐無稽な感じです。

 但し、フ○ットアースやタ○タリア帝国とかを主張しいている人達は、中世の日本の城郭は実はあのCGのような感じだった可能性(実は中華風、欧州風)があると主張している人も多いみたいです。

 今回は大○ドラマの時代考証に何度も関わっていていて、城郭研究も専門的に研究している人も時代考証に関わっているので、単に製作側の無知という次元だけの話ではない可能性もあって、なかなか結論は出しにくい感じです。


2023/02/03 (Fri) 18:36 | URL | 編集 | 返信

福田元昭 #-

★Re: 中世の城郭

 ご指摘の通りです。大河ドラマ「どうする家康」の清洲城を批判している方の多くは中韓嫌いのネトウヨの様です。

2023/02/04 (Sat) 00:00 | URL | 編集 | 返信

匿名希望の1読者 #6urEx/7U

★当時使われていた武器等

 ご返事ありがとうございます。

 公式の歴史が怪しい可能性があると、当時の日本が、本当に公式の歴史にある弓矢、刀、槍、火縄銃などで戦っていたかどうかも怪しくなります。実はもっと高度な兵器で戦っていた可能性すらあります。

 そもそも当時を描いている絵の大半が後世になってから描かれていますし。当時の1次史料自体が恐ろしく少ないです。これは、後に権力握った者たちにとって都合が悪くて大量に抹消された資料があったのかもしれません。

 もしかしたら、当時の清洲城の資料が残っていないのは、後世の人が、広めたい信長像からしたら都合が悪いものがあったのかもしれません。

 多分、信長のイメージも現実は相当違っていた可能性もあります。


2023/02/04 (Sat) 13:31 | URL | 編集 | 返信

福田元昭 #-

★Re: 当時使われていた武器等

 いつもながら匿名希望の1読者さんの洞察力の深さに敬服しています。

>そもそも当時を描いている絵の大半が後世になってから描かれていますし

 ご指摘の通りなのですが、写真のない時代を探究する際、絵画史料に頼る事は多いです。ちょうど30年前に私も執筆に加わった「絵画史料を読む日本史の授業」という本がリリースされました。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002245747-00

>大量に抹消された資料があったのかもしれません

 私もその可能性があると考えています。中世の日本には「巨人族」がいたと考えられていますが、それを隠蔽する為に、史料隠蔽が行われたかもしれません。

3250.巨人族<拍手+いいね=38>
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-3799.html

>当時の清洲城の資料が残っていないのは、後世の人が、広めたい信長像からしたら都合が悪いものがあったのかもしれません。

 後世の権力者層である徳川とそれと結びつく天台宗の僧侶達にすれば、比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長を徹底的に悪役にしたかったのでしょう。

2023/02/06 (Mon) 10:16 | URL | 編集 | 返信

(3)清洲城

 現在、愛知県の中心は名古屋市です。県庁所在地であり、2019年の国勢調査に基づく推計人口は230万人を超えました。これは全国の自治体では横浜市、大阪市に次ぐ3位であり、東海地方最大にして日本有数のメガシティといえます。しかし、尾張地方の中心地は、もともとは清洲(現在の清須市に該当するエリア)でした。清洲城は、尾張・遠江・越前の守護を務めた管領の斯波氏が、14世紀末から15世紀の初頭に築造したと伝えられています。1478(文明10)年に守護所に定められてから尾張の中心地となり、室町時代後期には尾張下四郡を治める織田大和守家の居城となりました。

 織田信長は、元来は那古野(なごや)城(現在の名古屋城二の丸付近)を居城としていましたが、織田弾正忠家の家督を継いだ際に清洲城へ本拠を移転。信長と徳川家康の同盟は「清洲同盟」と称されたことからもわかるように、この盟約は清洲城で締結されました。また、信長死後の後継者決定会議も清洲城で開催されました。いわゆる「清洲会議」です。こうした例からも、かつての清洲は政治や経済の中心地として栄えていたことがわかります。

(4)清洲越し

 清洲越し(きよすごし)は、1612年頃から1616年までのころに行われた、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市の移転をいいます。これにより、名古屋という都市が誕生しました。

 尾張国(現在の愛知県西部)の中心は、長らく清洲城とその城下町でした。1600年の関ヶ原の戦い以降、徳川家康は大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢にありました。徳川家康は清洲城を豊臣家対抗の拠点と考えていましたが、清洲は庄内川水系の下流域にあたり水害が多発すること、水攻めされると兵糧に欠くこと、清洲城が天正地震で液状化したこと、城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないなどの弱点がありました。そこで家康の指示の下、1609年、現在でいう熱田台地の上に新たに城を築き、新しい都市を開発することとなりました。1610年、西国諸大名の助役による天下普請で、名古屋城の築城が開始されました。

(5)ワクチン












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