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474.「オレンジエア」か「ソ連エア」か?

茨城県久慈郡大子町 生田 太陽ノックPVロケ地
↑画像:茨城県久慈郡大子町 乃木坂46・生田絵梨花 太陽ノックPVロケ地

(1)放射性水蒸気

 この夏、福島原発とその周辺は全国屈指の曇天地帯だった。福島原発における2015年3月20日の重水素・トリチウム水の水蒸気爆発<メルトダウンデブリの地中再臨界水蒸気爆発>以来、放射性水蒸気が日光をさえぎって、全国屈指の曇天地帯となったのではないかと考えられる。

上の冒頭の写真の撮影現場は、茨城県久慈郡大子町である。福島原発から比較的近い。撮影日もご覧の有様だった。

この場所が、15/08/03付けオリコン週間ランキングNO1に輝いた乃木坂46の「太陽ノック」のPVのロケ地となった。放射性水蒸気によって現実の太陽がノックアウトされてしまった感じです。

もちろん、そう言うエリアでもたまには太陽が顔を出しますよ。下の動画は、たまには太陽が顔を出している時間に一部が撮影されています。そうしないと、「太陽ノック」と言うタイトルにふさわしくないから。

同じ茨城県内でも「467.福島原発周辺だけ濃霧が続いているのはなぜか?」で紹介した四ツ倉海岸と比べたら、久慈郡大子町は内陸部にあるので、多少は晴れますよ。467はこちら。では、曇天地帯だったこの夏の茨城県久慈郡大子町の有様をご覧下さい。


↑動画:15/08/03付けオリコン週間ランキングNO1HIT 「太陽ノック」 by 乃木坂46

(2)口封じの歴史・高天原山事変編34 現在のボーイング社 The Boeing Company

高天原山事変を語る上で、アメリカのボーイング社は重要な要素である。

ボーイング(The Boeing Company)は、アメリカ合衆国に所在する世界最大の航空宇宙機器開発製造会社。1997年にマクドネル・ダグラス社を買収したため、現在アメリカで唯一の大型旅客機メーカーであり、ヨーロッパのエアバスと世界市場を二分する巨大企業である。また民間機だけでなく、軍用機、ミサイル、宇宙船や宇宙機器などの研究開発・設計製造を行う。機体の設計に関して、有限要素法の設計手法の導入に先んじていて、その技術は車輌構体設計など他分野にも技術供与されており、世界の航空宇宙機器業界をリードしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0

読者の皆様は、世界最大の航空宇宙機器開発製造会社だから、日本の民間航空機の市場を制していて当然とお考えになりますか?

現時点での企業規模から考えると、そう考え、更に、日本の民間航空機の歴史がSTARTした段階から、ボーイング社が日本の民間航空機の市場を占有していたとついつい考えがちである。しかし、それは正しくない。

(3)口封じの歴史・高天原山事変編35 B29

欧州で第2次世界大戦が始まったのを受けて、アメリカの陸軍は1939年11月、超長距離大型爆撃機の開発に着手した。航空機メーカーに提示した要求仕様は、最大速力が時速644キロ以上、爆弾1トンを搭載して航続距離8500キロ以上と、当時としては破格の高スペックだった。

 この要求に応じて製造されたボーイング社とコンソリデーテッド社の原型機のうち、ボーイング社案がB29爆撃機として正式採用され、1941年に最初の量産発注が行われた。

B29は、戦場で飛行機同士で戦闘したりするのが目的ではなく、初めから大量の爆弾を搭載し長距離を飛行するためにつくられたものだった。

 その後、ボーイング社のB29には、ライト社製のツインターボ搭載2200馬力エンジンや与圧式キャビンなど新しい技術がつぎ込まれました。

 そして、1943年5月、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の会談により、B29は対日本戦専用機とすることが決定されました。

 当初は、中国の成都に基地をもうけ、そこから北九州爆撃を始めました。しかし、燃料調達が不便だった為、後にグァム、サイパンに基地を作り、そこを拠点として日本の本土爆撃が開始されました。

 B29は、その卓越した能力により日本の継戦能力を喪失させた、アジア太平洋戦争における戦略爆撃機の代表と言える。 

ソ連のスターリンは、第二次世界大戦中、アメリカに対しレンドリース法に基づき、B29を供与するようにアメリカに要求した。しかし、アメリカは重爆撃機をソ連に渡したくなかったのでスターリンの要求を拒絶した。

 そうした最中の1944年7月、8月及び11月に日本の九州及び満州国を爆撃した3機のB29が、機体の故障などによりソ連領内である沿海州に不時着した。搭乗員は抑留された後にアメリカに送還されたが機体はそのまま没収され、スターリンの命令によりリバースエンジニアリングされた。

 そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われ、1946年夏に完成したのがTu-4である。Tu-4は、1940年代後半から1960年代中ごろまでソ連の戦略爆撃機として使用された。

つまり、当時のソ連は、最近で言えば佐野さんがやったみたいな事をやったわけだ。ここ20年くらいで言えば、ある程度の中国企業がやったみたいな事をやったわけだ。もっと昔で言えば、ある程度の日本企業がやったみたいな事をやったわけだ。

なお、レンドリース法とは、武器貸与法とも言い、1941年から1945年の間に機能した、アメリカ合衆国がイギリス、ソ連、中国、フランスその他の連合国に対し、有償で莫大な量の兵器・戦略物資を貸与・供給するための法である。

手元にある高校生が使用する三省堂の世界史の教科書でも「武器貸与法」は、太字で登場する。

<三省堂の世界史の教科書より一部抜粋> アメリカは、第二次世界大戦がはじまると、はじめ中立を宣言していたが、フランスがやぶれると、徴兵制を実施して戦時体制をととのえ、ファシズム諸国の侵略を牽制した。1940年、ローズヴェルト大統領が3選をはたし、1941年に武器貸与法を成立させてイギリスなど連合国支援にふみきり、アメリカは軍事的にもしだいに重要な役割をはたすようになった。 <一部抜粋終了>

(4)口封じの歴史・高天原山事変編36 ソ連軍機Tu-95が最初にJAL123便尾翼部を破壊した!

さて、話題をB29に戻しましょう。敗戦後の日本の民間航空機の歴史において、ボーイング社のB29の爆撃を受けた日本は、当然の事ながら、日本の民間航空機におけるボーイング社のシェアは極めて低かった。

そもそも敗戦後間もない頃の民間航空は、占領下の日本では連合国側から航空禁止令が出ていたので、航空会社の設立は認められなかった。

連合国の対日占領政策のPOINTは「民主化と非軍事化」である。航空禁止令はその非軍事化の一環である。

 やがて、1951年8月に日本航空が設立された。日本航空のライバルとなる全日空は純民間資本の日本ヘリコプター輸送と極東航空が1957年に国の方策により合併してできた航空会社である。1957年は私が生まれた年である。両社は1952年に設立し運行を開始したが、共に多くのローカル線を抱えていたこともあり、採算が取れず合併の運びとなった。

私が東京都西多摩郡日の出村立平井小学校に入学した1964年の新幹線開業前の日本航空と全日空の競争は、機種選定競争<速度競争>で始まった。設立間もない頃の日本航空と全日空の国内線の主要な機種は日本航空がDC-4(巡航速度が320km)、全日空がDC-3(巡航速度260km)であった。 アメリカ合衆国のダグラス社が開発した大型レシプロ旅客機。DC-4とDC-3は、アメリカ合衆国のダグラス社が開発した旅客機である。(2)で記した通り、ボーイング社が1997年にダグラス社を買収したので、現在はダグラス社は存在していない。しかし、当時は、ダグラス社は、ボーイング社のライバル企業だった。

 1959年になると全日空はDC-4に対抗するため、アメリカ合衆国のコンベア社が開発した旅客機であるコンベア440(巡航速度400km)を導入し、東京-大阪を1時間半で飛行した。さらに全日空は1960年になるとイギリス製のピッカース・バイカウント(巡航速度500km)を導入し、東京-札幌を3時間弱で飛行した。日航はDC-4のままなため、同区間を4時間弱かかった。これにより全日空は先に飛んだ日航機を後から追いかけ追い抜くダイヤを組み、多くの乗客を取り込んだ。

 一方、日本航空はこれに対抗するため、1961年よりDC-8 やコンベア880のジェット機を導入し、全日空の客を引き戻した。1964年になると全日空もジェット機を導入し両社の速度競争はこれで終止符を打った。飛行機はこの時代まだまだ高嶺の花で利用客も社長など極限られた人しか使われなかった。そして、高天原山事変を考える上で重要な点は、この段階までボーイング社は日本の民間航空機市場に参入できていないと言う事実である。

1964年10月に東海道新幹線が開業すると開業前のドル箱路線である東京-名古屋、東京-大阪の路線が急激に縮小した。これに伴い、国内線だけを運航している全日空や国内航空<会社名です>(まだ東亜航空との合併前)は大きく収益を落とした。特に国内航空は悲惨で、1964年にコンベア880やボーイング727のジェット機を購入し東京ー大阪などの幹線に進出したが、本数が日本航空や全日空に比べて少ないため、1年程度でジェット機を売却し、幹線から撤退した。その後、特にローカル線が多い東亜航空と国内航空は経営が苦しかった。これにより1971年東亜国内航空となった。この時代に入りようやくボーイング社は日本の民間航空機市場に参入できた。

http://www.geocities.jp/takahajime2003/ryoko-airlink-history3.html

私が東京都西多摩郡日の出村立平井中学校に入学した1970年になると、当初10社程度あった民間航空が3社に集約されつつあった。これにより事業分野も日本航空は国際定期便と国内幹線、全日空は国内幹線、国内ローカル線および近距離国際線のチャーター便、東亜国内航空はローカル線と一部の国内幹線と決められた。これは1970年に閣議決定され、1972年に運輸大臣通達が出たことにより45/47体制と呼ばれ、この体制は15年続くことになる。

 1978年になるとアメリカで航空自由化が起こった。この熾烈な航空自由化を眼のあたりにすることにより、日本の保護された航空輸送は割高で硬直した運賃により、利用者からだんだん不満が表れてきた。さらには、国際線1社体制では需要旺盛な旅客をさばくことができず、外国航空会社にシェアを取られる原因となった。やがて、高天原山事変の前年に当たる1984年になると国際線に全日空の就航が認められ、全日空は東京-ワシントン、ロサンジェルスに就航した。

アメリカで航空自由化が起こった1978年5月20日、新東京国際空港<現・成田国際空港>が多くの人々の反対を押し切って開港してしまった。私の恩師は高校教師になる前に成田空港建設反対闘争<成田闘争>に参加した。

 高校卒業後、その東京教育大学卒の恩師と話した際、「成田闘争で、私は官憲に捕まらなかったので教師になれたけど、私の友人は官憲に捕まった為、教師になれなかったんだ。」と語って下さった。

 私が高校生の頃、週1回朝礼があった。放送委員だった私は、その準備などをしたりしていたので、一般生徒の整列の中に加わらなかった。仕事の関係上、朝礼の本番中、教師が立っている位置にいた。その為、たまに教師の本音を聞く機会に恵まれた。

 前述の恩師は、朝礼の校長のスピーチの祭、小声で「あの馬鹿、何言ってんだ。」と批判のつぶやきを発したりしていた。私はその反権力的な若い教師が好きだった。

さて、1980年ごろになると、ボーイング社が日本の民間航空機市場にかなり入り込んできたが、現在のような圧倒的なシェアではない。1980年は、私が初めて飛行機に乗った年である。

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↑画像:1980年ごろの日本航空のB747     

上の写真のB747のBは、ボーイング社を意味している。なお、B29のBはボーイング社を意味していない。B29のBはボマー(bomber)のBです。爆撃機を意味します。ちなみに、Fはファイター(fighter)で戦闘機を意味します。

ところで、「470.チェルノブイリ原発事故の発生時刻が、「午前1時23分」だったのはなぜか?」で紹介したソ連軍機Tu-95は、(3)で紹介したB-29のコピー機であるTu-4の発展型とも呼べる機体である。470はこちら

https://ja.wikipedia.org/wiki/Tu-95_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

 1985年8月12日、ソ連軍機Tu-95が最初にJAL123便尾翼部を破壊した。

(5)口封じの歴史・高天原山事変編37 オレンジ色の発光体

JAL123便搭乗者の小川哲氏が機内より右車窓を撮影した写真には、迫り来るTu-95に酷似した機体と、Tu-95だと分析できる斜め後ろ姿の機映の、計2枚が記録されています。

拙ブログにこれまでたくさんのコメントを寄せて下さった123氏が、高天原山事変の現場から機体破片やミサイル破片などを収集開始する以前、高天原山事変の唯一の物証と言われていたのが、小川哲氏が機内より右車窓を撮影した写真です。

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↑画像:写真1:小川哲氏が機内より右車窓を撮影した写真小川さん(YouTube、TV報道ビデオより)

この写真は、ご遺族のご判断から、事故から4年後の1990年10月14日に朝日新聞の朝刊および、他のメディアにて公表されました。

写真内の黒いシミのような点は、実際の写真ではオレンジ色の発光体として写っています。123便のボイスレコーダーの音声の中に、高濱機長が「オレンジエア」と語っているように聞こえる部分がある。実は、「オレンジエア」ではなく、高濱機長は2回「ソ連エア」と語っている。確かに何回か聞いていくとそのように聞こえる。

https://youtu.be/DvyfXuZ4vMI
↑動画:日本航空123便墜落事故 ボイスレコーダーに隠された謎

上の動画は、多くの人々が真相に近づかないようにミスリードする意図で制作されたと推測できる。しかし、高濱機長が「ソ連エア」と語っている音声が出てきますので貼り付けました。

(6)深夜の牛丼屋に、ボロボロの親子が入店。 男『小盛りの牛丼下さい』 俺「はい(子供の分だけじゃん、 お金ないのか?)」→すると…

涙の2歳の少女
↑画像:2歳の少女ナホちゃんの涙

http://life-news.jp/?p=1996

少し前、資格とりたくて数年勤めた職場を退社して、フリーターしながら資格の勉強してた。バイト先は牛丼屋で、基本は22時から朝までのシフト。2年前のちょうど今時、深夜1時頃にある父子が客できたんだ。

 父親は30代くらい。子供は女の子でたぶん2才~3才くらいかな。深夜にもかかわらず女の子は眠い感じがなく活発に喋ってた。 お冷を持っていったら父親「ちょっと注文考えさせて下さい」と。当時は1人シフトで地方都市の国道沿いの店なもんで他に客は無し。父子の会話が明瞭に聞こえてきた。

娘「これナホちゃん食べたいなー」父「ナホはこれ食べたいんだなー (財布の中身見て)いいよ、これ頼もうか!」
娘「ぎゅどんておいしいー?」
父「うん、すごくおいしいよー!」

呼び出しが鳴ったので注文を取りに行った。

父「すいません、この(小盛の牛丼)をひとつください」
俺「他にご注文は?」
父「以上です」

 お金ないのかなーと思った。この父子をよく見れば、父親はけっこう着古したスラックスにヨレヨレのYシャツ。娘はもう5月も終わる時期なのに、スウェットっぽいズボンに毛玉いっぱいついた長袖。荷物は汚い大き目のリュックひとつ。明らかに何日かは風呂も入ってないなって感じの風貌だった。

 まあでも仕事は仕事なのであまり気にせず、すぐに牛丼を持っていった。案の定、父親は全く食べずにすべて娘に食べさせていた。

父「ナホ、おいしいか?」
娘「おーいしー!とうっちゃん、とうちゃんは食べないのー?」
父「父ちゃんもうお腹いっぱいだから、ナホちゃん全部食べてな」

 やばいこれ、なんかコントとかでよく見るアレじゃん! こんな親子が実際にいるとは・・・・不憫だ・・・明らかに家も無く職も無くみたいなアレだわな。

 さらによく見ると、父親の頬はコケていた。娘はちょっと髪の毛がボサボサだけど、かわいいおかっぱ頭の女の子。

 この子に十分に食べさせるために、本当に頑張ってるんだろうなとか思った。

 でもいくら1人シフトとはいえ、「これはサービスです」とか言って、並盛1杯おごってやるとかは考えてなくて、会計済ませたら出て行くだろうぐらいに思ってた。

 そしたら、お腹一杯食べた女の子がすごく眠そうにしてる。これはもう長時間滞留だね! 5分ぐらいで寝てしまうんだけど、それまで色々と父子で会話してた。「かあちゃんとねんねしたい」とか「とうちゃん、かあちゃん迷子かなあ」とか。

 ちょっと話が見えないんだが、どうやら母親はいないらしい。眠そうにしながら「かあちゃん・・・」とか呟くの聞いてたら、なんかすげえ不憫に思えてきて、少し偽善っぽい感情が芽生えてきた。

 女の子が寝てしまってから、自分の車に常備してるブラケットを取りに行き、店に戻って父親に渡した。

俺「あの、これ娘さんにかけてあげてください」
父「えっ!あっ、いや、すいません、ほんとにすいません・・・ちょっとこの子眠れたらすぐ出て行きますんで・・・・」
俺「いつも深夜はほとんどお客さんいないんですよ。起きるまで大丈夫ですよ」
父「すいません、ほんとにすいません」

 隣りの椅子と膝枕で女の子寝かせた父親が、俺が横通るたびに「すいません・・・」って頭下げるんだよ。どんだけ低姿勢なんだよと。たぶん家とかも無い感じなんだろうな。徒歩で来てるし。

 結局女の子は6時前に起きて、父親はペコペコ頭を何度も下げながら店を出て行った。俺はシフトが6時までだったので、交替のバイトに引き継いだ後、6時15分頃に退勤した。で、車で国道に出て300mくらい自宅の方向に走ったら、父子がいた!

 娘の手をつないでとぼとぼと歩いている父親の姿が見えた。ちょうど通り過ぎるあたりで父親が女の子を抱っこしていた。なんかね、父親の体に力が入ってないんだよね。たぶん1日とか2日なにも食べてないような感じ。フラフラしてるのに女の子を抱っこしようとしてるし。

 で、いてもたってもいられなくなったので、ちょっと先に車を停めて、父子のところに走っていった。

俺「そんなフラフラじゃ娘さん落としちゃいますよ」
父「え、あ、大丈夫です・・・・ え、さっきの牛丼屋の店員さん?」
俺「いや店内から気になってたので・・・失礼ですけど行く宛てあるんですか?」
父「え、いやー、この子の母親のところに・・・・」
俺「お母さんの居場所ってどこです?」
父「・・・・・(誤魔化し笑い)」

俺「あの、俺朝食まだなんですよね。で、帰り道のマックでなんか食べようかと思ってたので、一緒にどうですか?」
父「あのー、お誘いありがたいんですけども、今持ち合わせがないので・・・」
俺「持ち合わせがないなら、娘さんの朝ごはんが買えないじゃないですか。行きましょうよ。娘さんの朝ごはん御馳走しますから」
父「そんな!見ず知らずの方に食事を御馳走して貰ったら」
俺「いやそんなこと言っても娘さんはお腹すくでしょう? じゃあ行きましょ!」

 という会話があって、無理矢理車まで連れて行き、マックへ行った。車の中では父親がずっと謝りっぱなしだった。「いやいいですよ。1人でご飯たべるより3人で食べた方が美味しいし」「すいません、ほんとすいません・・・」の繰り返しw

 マックに入って、女の子に「ホットケーキすき?」と聞くと、「・・・・すき・・・」とのこと。なのでホットケーキの朝マックのハッピーセットと、自分のマックグリドルのセット、それに父親の分で自分と同じものと、ソーセージエッグマフィンのセットをもう一つ。

 この父親、本当に謙虚というか欲が無いというか、そんだけ頼んでも自分の分は無いと思っていたらしい。カウンターで「お水1ぱいもらえますか」とか言ってやんの。いや2人分は貴方のですって言ったら、「そんなのいらないです、すいません、すいません」って。とにかく合計4人前を注文して、会計して品物もらって席に着いた。

俺「俺、マックグリドル好きなんですよね。で、ナホちゃんにはハッピーセット。あとの残りはお父さんのです」
父「え、なんで?そんな、悪いです。 私このハッシュポテトあれば・・・」
俺「そんなちょっとじゃナホちゃん抱っこできませんよ。ハイ食べて!」

 その後父親に泣かれた。こんな厚意に出会ったことないって言って。なんかね、父親も不憫だけど、ナホちゃん(偽名)がもっと不憫でならなかったんだ。

 その後、食べながらなんでこんな状況になってるかを聞いた。どうやら3ヶ月くらい前までは、夫婦とナホちゃん以外にもう一人妹がいたそうだ。

 ナホちゃんは父親にそっくりで(事実そっくりだった)、 妹は母親似。

 奥さんは妹の方を溺愛していて、ナホちゃんにはかなり冷たく当たっていたとのこと。そして3ヶ月前、奥さんは妹(次女)だけ連れて出て行った。

 父親の勤務先は折からの経営悪化で希望退職を募っており、父親はそれに応じた。というか応じざるを得ない状況に追い込まれて退職した。

 わずかな退職金と家計を握っていた奥さんは全てを持って蒸発した。手元に残されたお金は数万円。

 そこで父親は痛恨のミスをしていた。退職の月にすぐ振り込まれるはずの失業手当の振込先を家計で使っていた(奥さんが握っていた) 父親名義の口座にしてしまった。

 もちろん振り込まれたお金は下ろせるはずもなく、奥さんが速攻下ろしてしまった。もちろん家賃も払えずにアパートは追い出されたと。

 そこまで聞いて、この父親にも色々問題あるなあと思った。

 娘を一人守らないといけないのに詰めが甘すぎる。でもそんなこと言ってられない。

 父親はともかくナホちゃんには、三食ご飯を食べさせて着る物もなんとかしなければいけない。

 事実、もう何日も風呂入ってなさそうだ。車に乗せたときに思った。ふたりとも、臭い。とりあえず空腹を満たしたので、我が家に連れて帰った。

 父親は相変わらず「いやそんなご厚意は!」とか言ってたけど問答無用。「とにかくナホちゃんをお風呂に入れてあげましょうよ」と。

 我が家はごくフツーの1DKアパート。8畳の洋間と狭いDK、それに風呂とトイレ。ついてすぐにナホちゃんに、「ナホちゃん、しばらくここがナホちゃんのおうちね」ナホちゃんはあんまりよくわかってないようだったけど、「ここ、ナホちゃんのおうちー?」とかいいながら、ローテーブルのところにちょこんと座って、部屋中を見回していた。

 偶然冷蔵庫にカルピスがあったのでそれを飲ませながら、とりあえず父親と話をした。

父「もうほんとにすいません!こんなご恩をいただいて・・・」
俺「何言ってんですか! とにかくナホちゃんが不憫なんですよ。お父さん、とりあえずナホちゃんとお風呂入ってきてください」

 お風呂からはナホちゃんの楽しそうなキャッキャした声が聞こえてきた。俺ももう33才なんだが、もし結婚してたらこれくらいの子がいてもおかしくないんだよね。なんかちょっと家庭的な雰囲気を味わえた。

 ここで俺は一つ決断をしていた。この父子をうちにしばらく住まわせて、父親の職探しと住居探しをさせようと。まずは職探し。定職について収入が入ってから住居探しだな。

 この父親は両親も亡くし、親戚も絶縁していて行くあて無いらしく、蒸発した母親方も頼れないとのこと。じゃあ新しい生活を2人で始めないといけない。

 俺には姉がいて、結婚した旦那が借金を作って離婚し、一人娘と一緒に出戻りしてるから、そういう苦労は少しは分かっているつもりだ。その申し出に、父親は泣きながら何度かありがとうございますって言ってた。

 俺は週4回の牛丼屋の夜勤以外は、家で資格の勉強をしていたから、父親が職探しをしている間くらいは、ナホちゃんの相手をしてあげられる。

 俺の当時の収入は、バイト代が手取りで月14万と退職前の預金が200万ほど。半年くらいは父子を住まわせるくらいはできた。もし自分の金銭的な状態が厳しかったら、とてもこんな提案はできなかったけどね。

 資格試験も年2回あったから、1回(半年)くらいは延期できる。ナホちゃんが笑顔でキャーキャー言ってる姿を見ると、それくらいは許容できると思った。

 風呂上がり、ナホちゃんが裸で走り出てきた。それをバスタオルで捕まえて拭いてあげた。あー俺、なんか父親みたいとか思いながら体を拭いていた。

 昼食は簡単に俺が作り、父親にはその後ナホちゃんと一緒に昼寝してもらった。 見ている限り、父親はゆうべから寝てなかったようなので。父親は夕方になっても寝続けていた。いったいどんだけ寝てなかったんだ・・・。

 先にナホちゃんが起きて、俺が遊びの相手をした。どうやら2才らしく、2才児の遊びなんてわからないので、とりあえずお絵描きをした。サインペンしかなかったけど、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたり顔らしきもの書いたり、2時間ぐらいはお絵描きしていたと思う。

 夜7時頃、俺の彼女が駆け付けてくれて、ちょうど父親が起きた。相変わらず「すいません、すいません」って言いながら。近くのファミレスで4人で夕食をとりながら、今後の事を話した。

 明日はまず父子の服や生活物資を買い出しして、それから職探しをすること。可及的速やかに仕事を探して就き、収入を得て自立できるようなら部屋を探す。猶予は4ヶ月。(ほんとは半年でもよかったけど)それまでに必ず探すこと。

 翌日、4人で市内のショッピングモールに行った。まずはフランチャイズの子供服店で、ナホちゃんの服を一式揃え、そのあとで父親の普段着と就職活動用のスーツなんかを買った。さらに生活必需品も3倍必要なので、色々と買い足した。その日だけで全部で7万円ぐらいつかったかな。

 彼女が「子供生まれたときの予行」とか言いながら一人張り切ってたな。それって結婚前提かよ・・・・。少しオサレな子供服店で、ナホちゃんに俺と彼女からワンピースをプレゼントした。子供服のプレゼントなんて、姪っ子に買ってあげて以来だ。

 その後の生活は、なんかこう、娘ができたような騒がしさだった。最初は知らないところに連れてこられて、緊張していたようだが、慣れてくるにつれ、走り回るわ壁に壮大なアート書いてくれるわ、ベランダで育てていたプランターの球根引っこ抜いてくれるわで、なかなかの腕白っぷりを見せてくれた。

 しかし父親はわずか半月で新しい仕事を見つけた。以前の職場と同じ工場の品質管理の仕事を見つけてきた。面接の結果、採用とのこと。さっそく次の週から仕事に行き、完全な月給がもらえた2ヶ月後にはアパートも探してきた。うちの部屋に来てから2ヶ月と19日後、父子は新しい部屋に引っ越した。

 実は父親とは2才しか離れていなかったんだが、「お兄ちゃんっ!ばいばーい!」と手を振りながら引っ越していった。

 で、引っ越した先がうちのアパートの下階wwwww今でも少し成長したナホちゃんと遊ぶ日々が続いている。彼女も休日(平日休み)には相手をしてくれる。

 そして今年の末には彼女が嫁に変わる。「ナホちゃんみたいに腕白な子が欲しい」ともう今から言っている。もうすでにナホちゃんが娘みたいな存在だから、子供ができても二人目みたいな感覚。

 少し寂しいことに、結婚したらもうすこし広い部屋に引っ越す予定だ。今のアパートから歩いて2分ほどの近所だけどね。最初は車で10分ほどのマンションにしようかと言っていたんだけど、嫁が「やっぱナホちゃんの近くにいたいよね」って言ったから、第二候補の近所に。

 今月俺の娘が生まれ、ナホちゃんと父親もお祝いに来てくれて騒いだあとにカキコ。ちなみにナホちゃんの父親とは今でもいい呑み友達です。

 最初に買い物でつかったお金も半年もかからず返してくれ、そのお金で今度はナホちゃんが小学生に上がる時に、ランドセルを買わせてくれと言ってある。

 俺の人生に、全くの赤の他人が、家族同然に存在になったということで、このスレに書き込みさせてもらいました。

参照;http://geinou-gossipssu.com

(7)いやー、涙が出てきました!

心温まる話でした。それにしてもナホちゃんの母親はひどい母親ですね。あのまま離婚しなかったら、ナホちゃんは母親からよりひどい虐待を受けていた可能性がありますね。

この記事の大元が掲載されている「芸能ゴシップッス!」<(6)の最後に貼り付けてあるリンク先>の方でこの話を探すのは、今となっては大変そうです。

さて、最後は読者の方から拡散をお願いされた記事です。一つ前の記事のコメント欄に掲載されている内容です。

(8)緊急拡散情報

【衝撃の事実】朝鮮人の遺伝子
https://www.youtube.com/watch?v=wsSOlEGnVSE

日本を支配する者
https://www.youtube.com/watch?v=QS7oVyT03VA

ー総務省勤務Nの告発ー

 レプタリアンが名乗る日本名の「通名」について日本政府は原則として変更を認めないとする通知をアメリカ中央情報局(CIA)、NASA、影の政府である秘密結社フリーメイソン出していたことが分かった。

 社会的に話題になる人物が出てくると、ネット上では、在日やレプタリアンではないのかと詮索がなされることがある。それは、その人物が生物名の本名を名乗らず、「通名」を使っている場合があるからだ。

 総務省の住民基本台帳室に関してNの極秘調査では通知を出したことは事実だとしながらも、通名変更の取り扱いを変えたわけではないと説明した。

 Nの情報提供に感謝し、この場で暴露します。

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