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2575.埼玉県の黒い雨 PART10

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↑画像 神奈川県足柄下郡真鶴町 欅坂46(撮影当時) 長濱ねる

(1)神奈川県足柄下郡真鶴町

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↑画像 星ヶ山から眺めた真鶴半島と真鶴港 出典はwiki

 07 March 2020 13:00にUPした「2574.埼玉県の黒い雨 PART9」は完成が7日21時頃になってしまいました。申し訳ありません。未完成時に来訪なさった方は、ぜひ再来訪なさって下さい。よろしくお願い申し上げます。今回はその2574の続きです。

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↑画像 神奈川県の地図 出典はこちら 

 今回の冒頭の写真の撮影現場は、鶴と亀の話が続いていますので、神奈川県足柄下郡真町です。JR東海道本線が通り便利な真鶴町ですが、2014年に「消滅可能性都市」に名指しされた。

 民間の有識者組織「日本創成会議」(座長・増田寛也前岩手県知事)が2014年発表した「消滅可能性都市」。名指しされた神奈川県内の9市町村はいずれも「消滅」への危機感を抱く。

 神奈川県内では三浦市、二宮、松田、山北、箱根、真鶴、大井、湯河原町、清川村の9市町村が列挙された。中でも松田、山北、箱根、真鶴町、清川村は「消滅の可能性が高いと言わざるを得ない」と指摘された。

(2)鶴は福井県敦賀市

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↑画像 天筒山から望む敦賀港と中央奥の三内山 福井県敦賀市 出典はwiki

 鶴は現在は原発銀座の福井県敦賀市に該当するエリアを指すと言う。戦国武将・明智光秀の生涯を描く2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の放送がスタートしました。光秀は一時期、越前の地に暮らし朝倉氏とゆかりがあったといわれています。また織田信長の越前朝倉氏攻めの際には、今度は織田軍の一員として嶺南地方に侵攻し活躍したといわれています。福井県内のあちこちに、こうした光秀の足跡が残っているのです。

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↑画像 明智光秀像(本徳寺蔵)

 戦国武将・明智光秀の前半生には諸説ありますが、一説では、美濃国(岐阜県)を追われた光秀は越前(福井県北部)に逃げ、10年ほど暮らした可能性があるとされています。その後、織田信長に仕えた光秀は、越前朝倉氏討伐のため若狭(福井県南部)に入り、金ヶ崎での撤退戦で大役を果たしたといわれています。

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↑画像 敦賀市金ケ崎町1-4 金ヶ崎城址 出典はこちら

(3)亀は京都府亀岡市

 亀は現在の京都府亀岡市に該当するエリアを指すと言う。日本の歴史上最大の下克上といわれる「本能寺の変」で、主君の織田信長を討ったとされている明智光秀。その波乱に満ちた生涯の多くは、いまだ謎に包まれています。

 5年に及ぶ攻略戦を制し、丹波平定を成し遂げた明智光秀。信長から『天下の面目をほどこし候』と絶賛され、織田家家臣のトップに躍り出ることになりました。拠点となったのが亀山城です。

(4)亀山城 (丹波国)

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↑画像 京都府亀岡市 亀山城 (丹波国) 出典はwiki

 亀山城は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった日本の城。亀岡城とも。明智光秀によって丹波統治の拠点として機能した城郭である。江戸時代初頭には近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれている。

 亀岡は江戸時代まで「亀山」と呼ばれ、古くから丹波の政治・経済・文化の中心地でした。そして山陰道の要衝であったことから、1577年頃、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波平定の拠点として丹波亀山城を築城しました。

 光秀は、城の周辺に近隣の9カ村の人たちを移住させ、城下町を整備しました。現在でも、旧城下町一帯には切妻や京格子の町家が残り、その面影を感じることができます。

 1579年に丹波を平定し、その翌年に丹波国を拝領した光秀は、信長から「丹波国、日向上働き、天下の面目をほどこし候」と讃えられました。さらに、光秀は商人を呼び寄せて本格的な城下町の形成や発展に着手しました。

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↑画像 亀山城天守古写真(美田村顕教撮影) 出典はこちら

 明治維新のあと、亀山城は廃城令により解体されますが、現在の所有者である宗教法人大本の手により石垣などが修復されました。一部の石垣には天下普請の際、石の運搬を担当した諸大名が記した刻印を見ることができます。

(5)「かごめかごめ」は明智光秀のテーマSONG

 「鶴は敦賀、亀は亀岡」って、私の勝手な妄想だと思ってませんか? 実はwikiに掲載されています。「敦賀と亀岡を統べるで明智光秀が統治。」という記載です。

 世間一般では本能寺の変を起こした逆臣、三日天下というイメージを持たれがちな明智光秀。しかし、丹波の地では町の基礎を築き、善政を布いた知将として親しまれています。

 内政の手腕も優れていたといわれる光秀。その実例の一つとして、「国人衆」という中間的支配者を家臣として取り立てた先進的な人材活用術があげられます。鎌倉時代から当時に至るまで、領民は国人衆によって支配され、その国人衆は領主によって支配されるといった構造が続いていました。光秀はこの古い体制をあらため、その土地のことをよく知る国人衆を任用することで効率的な統治を可能にしたのです。

 さらに、織田信長軍の中でも最大規模の軍団を率いるまで成長した光秀は能力主義を取り入れ、出自に捉われない人材配置を行いました。信長にも通じる手法ですが、光秀は家臣を大切に扱い、感謝を忘れなかったところに大きな差があります。

 光秀は、合戦で討ち死にした家臣を列記するほか、家臣の功を讃える書状の中で手傷を労うなど記録の中からもその情の深さがうかがえます。また、檀徒となった近江国西教寺に戦死した家臣を弔う供養米を寄進するなど、当時としては珍しい逸話も残っています。

 制度の面でも画期的であったのが、18条からなる「家中軍法」の存在です。光秀が本能寺の変の1年前に制定したといわれていて、条文には軍団の秩序や軍役の基準を明確に記しています。軍法が存在していなかった織田家中にあって先例となった光秀の法は他の武将の模範となりました。

 城のあり方においても、光秀は独特の考えを反映させました。光秀が領主として築いた亀山城などは、領民と目線を同じくし、その暮らしと一体になる「平山城」でした。戦闘を目的とする「山城」が一般的だった時代において、政務の場として城を捉えた特徴的なものでした。

 領民に対しては、経済的な功績として税の免除を行いました。光秀は、本能寺の変で信長を討った後、京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与しました。さらに洛中や丹波に対して地子銭(土地税・住宅税に相当)を永代免除しました。

 このように名君として統治を行った光秀の遺徳を偲び、亀岡市では「亀岡光秀まつり」を毎年開催しています。戦国絵巻さながらの勇壮な武者行列が旧城下町を練り歩く、市をあげての春の一大イベントです。

 公募で選ばれる光秀役などの参加者は首塚が祀られる谷性寺で行われる追善法要と亀山城跡にある宗教法人大本での慰霊祭に参列、光秀に祈りを捧げます。谷性寺ではこのほか、6月に明智家の家紋である桔梗が咲き誇る「ききょうの里」を門前で開催しています。光秀を顕彰するイベントを通じ、偉大な功績はこれからも語り継がれていくことでしょう。

亀岡光秀まつり
↑画像 京都府亀岡市 亀岡光秀まつり 出典はこちら


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↓動画 欅坂46(撮影当時) 長濱ねる
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2020/03/10 (Tue) 17:00 |  | 編集 | 返信
福田元昭 #-

Re: タイトルなし

福田様 こんにちは。

 何かのネットで、海外で突然死が起きていると知りました...何が原因でしょうか?
実は先週、研修生が来日して翌日に廊下で倒れていて、ADも使ったけれど間に合わず、お亡くなりになったそうです。多分男性だと思いますが、どこのお国のお方までは分からずですけど。

 前にも書きましたが、東京は空気が悪い話ですが。喘息の方、私も含めて発作がなかなか治らないのです。私は逆流性食道炎のせいもあり、喉がイガイガして咳が一度出ると止まらなくなり車内では、避けられます。こちらのブログだと思いますが、国立成育医療センターは昔軍事関係の病院でしたっけ?

 同僚ネパールの方の子どもさんが喘息で通ってますが、イマイチ医療が発達しているのによく入院ばかり。していて、私も今回扁桃腺が腫れて大変でしたが医師が首を触って診断が普通だと思うのですが。見た目でも首が腫れていたのに、MRI検査をしたと聞いて。子どもなのに、何でも検査して儲けているのか?と思いたくなります。

 年に何回も入院しているの聞いて、人体実験でもしているのかと疑ってしまいます。
もっと良いクリニックあるのに...親は治療してもらってると思うかもしれないけど、子どもがかわいそうって思うのですけどね〜。

>福田様 こんにちは。

 こんにちは。福田さんで結構です。

>何かのネットで、海外で突然死が起きていると知りました...何が原因でしょうか?

 突然死で亡くなる方の総数は日本を含めてかなりの人数ですから、一概に何が原因と断定できません。個々に様々な要因がありますから。突然死の中で最も多いのは急性心臓死とされています。

>前にも書きましたが、東京は空気が悪い話ですが。喘息の方、私も含めて発作がなかなか治らないのです。私は逆流性食道炎のせいもあり、喉がイガイガして咳が一度出ると止まらなくなり車内では、避けられます。

 2501と2523に書いた事に加え、2449に書いたあわのうたを歌うのも良いかもしれません。以前の回答に書けば良かったのですが、誤診を2度もする様な医療機関を受診する事はやめて、他の方法を試した方が良いと思います。

 そもそも咳や下痢や鼻水は体に不要な物を排除する生体反応です。ですから無闇にそれをSTOPしない方が本当は良いのですが、それらが度を超えたり長く続くとつらいのでついつい薬に頼ってしまうのが多数派ですね。

 釈迦に説法かもしれませんが、お仕事で前かがみ姿勢をとる事が多い方は、おなか全体が圧迫され、胃酸の逆流が起こりやすくなり、逆流性食道炎が発生しやすくなります。

 ですからお仕事以外の時間は、意識して仙骨を立ててその上にある腰椎と脊椎をまっすぐに立てて過ごすと良いと思います。お仕事で疲れているとついつい背骨を曲げたりする一見楽に思える姿勢を取りがちです。しかし背骨を曲げる姿勢は、胃が圧迫されるため、胃酸の逆流が起こりやすくなり、逆流性食道炎が発生しやすくなります。

>こちらのブログだと思いますが、国立成育医療センターは昔軍事関係の病院でしたっけ?

 拙ブログのブログ内検索に「国立成育医療センター」と入れてもHITしないので、拙ブログでこの機関について書いた事はないと思います。

 都立病院の多くは東京市の貧困・衛生対策を目的に明治期に創立されました。創設当初から1943年に東京府が東京都になるまでは府立病院です。では国立病院は?

 「2390.TBSの所有地の歴史」(このシリーズも完結していません)などに書いた通り、昔、東京は軍都でした。

 現在、東京23区内には独立行政法人化された国立病院機構を除き、国立がんセ
ンター、国立国際医療センター、国立成育医療センターの3つの国立の医療機関
があります。いずれの病院もわが国の治療・研究の最高峰とされています。

 築地には海軍施設、戸山には、戸山ヶ原と呼ばれ陸軍の射撃場や陸軍の軍人養成機関である陸軍戸山学校など軍施設が並んでいました。さらに、敗戦前の世田谷地区は軍施設のメッカであり、そもそも世田谷の郊外化、都市化は、旧軍施設の進出が大きな役割を果たしたと考えられています。

 明治政府は、明治初期に四谷・赤坂・青山などに兵営を築きましたが、1890年頃にはスペースの限界から郊外に進出せざるを得なくなりました。この結果、農地や雑木林が広く展開し、交通の便がよく、当時は土地も廉価だった世田谷が候補地として注目されました。

 建設省関東地方建設局京浜工事事務所が編纂している『多摩川誌』によれば、当時、
世田谷の地元では軍施設の進出に対し,土地の有償譲渡その他のメリットのため、招致運動まで起こったのです。陸海軍が地域の開発を促進し、現在の国立病院の礎を築いたのです。

 つまり、現在の国立病院、つまり厚生労働省が提供する医療のルーツには、陸軍・海軍の伝統が深く根付いているのです。

 海軍は築地で誕生しました。ですから、敗戦前の築地は海軍の町でした。1854年、江戸幕府は現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作りました。この施設が1856年に講武所という、旗本・御家人、およびその子弟を対象とした武芸訓練機関に発展しました。

 その後、1861年に講武所は水道橋の現日本大学法学部図書館の場所に移転しました。築地には軍艦操練場が残り、幕府の海軍の中核的施設となりました。この軍艦操練場の教授が、有名な勝海舟でした。

 明治維新後、講武所跡は明治政府に接収され、海軍施設として利用されました。また、同時に築地には多くの海軍関連施設が建設されました。1872年には海軍本省が元尾張藩別邸跡地に創立されました。1869年には旧芸州屋敷内に海軍操練場が設立され、1876年に海軍兵学校に改称されました。その後、1888年に広島県江田島に移転するまで海軍兵学校は築地にありました。

 また、1908年に海軍軍医学校が、港区芝から築地に移転してきました。現在の国立がんセンターの場所です。この学校では、医学・薬学・歯学の3コースを設定し、海軍病院を総括指導する軍医を養成する普通科・高等科・特修科、看護士・技師を養成する選修科を設置していました。戦争の遂行に軍医養成は必須であり、日本の陸海軍も医学校の運営に力を入れました。

 森鴎外が東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごし、帰国後、小説「舞姫」を発表したのは有名な話ですね。

 さて敗戦後、『陸海軍病院』の名前が『国立病院』に変わりました。海軍省は1945年11月30日に勅令第680号を以て廃止され、海軍軍人の復員を主導する第二復員省となりました。この第二復員省は、1946年6月に第一復員省(旧陸軍省)と統合して、復員庁となり、その後、1947年10月に復員庁は廃止され、厚生省<当時>に移管されました(一部の部局は総理府直属となった後、廃止されました)。

 中国残留孤児対策、引揚援護、戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族等の援護を、厚労省が行っているのは、このような歴史的経緯があるからです。

 敗戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていました。日本を占領したGHQは、まず占領軍が使用する優良医療施設を確保し、次いで、日本国民の医療提供体制を考える必要がありました。その際、GHQがまず手をつけたのは、陸海軍が保有する医療機関の厚生省<当時>移管でした。

 この際、全国146の軍施設が国立病院、国立療養所となりました。ですが建物も職員も従来のままで診療が継続されました。つまり、病院自体の組織は「陸海軍」のままで、名称が軍病院から国立病院に変更されただけだったのです(参照 新村拓、『日本医療史』、吉川弘文館)。

 この話、長くなりそうなので、このコメント欄に記載した部分を含めて記事本文に掲載する予定です。

>同僚ネパールの方の子どもさんが喘息で通ってますが、イマイチ医療が発達しているのによく入院ばかりしていて、私も今回扁桃腺が腫れて大変でしたが医師が首を触って診断が普通だと思うのですが。見た目でも首が腫れていたのに、MRI検査をしたと聞いて。子どもなのに、何でも検査して儲けているのか?と思いたくなります。年に何回も入院しているの聞いて、人体実験でもしているのかと疑ってしまいます。

 「イマイチ医療が発達しているのに」って日本の事をおっしゃっているのですか? そうだと仮定して話を進めます。医療が発達しているとされる日本は、医療機関が●●●●●さんがお住まいの都市部程飽和状態です。ですから都市部程、ケムトレイルを散布して病人を増やす必要があるし、1度抱えた患者<カモ>を離さない様にしているのかもしれません。

>もっと良いクリニックあるのに...親は治療してもらってると思うかもしれないけど、子どもがかわいそうって思うのですけどね〜。

 本当にそう思うのならその親御さんにおっしゃたら如何ですか? ここに書き込んでも何の解決にもなりません。

2020/03/10 (Tue) 23:43 | URL | 編集 | 返信
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2020/03/11 (Wed) 17:08 |  | 編集 | 返信

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