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2561.満州事変は侵略戦争

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(1){2560.日本の観光地をインバウンド頼みにさせた悪党ども<北海道が新型コロナウイルス感染で「緊急事態宣言」を出すに至ったのはなぜか? PART4 > }への非公開コメント

 2560の続きです。

http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-3064.html#comment5909

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★侵略の定義について

 記事に侵略についてあったので侵略の定義について書きました。侵略の定義する時、行為と主体、客体を両方定義する必要があるかもしれません。

 というのも、当時の満州は中華民国の明確な実効支配地域ではなく、軍閥の支配地域であったため、謀略を駆使した日本の行為(関東軍)は非難されていて、満州国建国は国際社会には承認されなかっですが、誰に対する侵略かという部分なども諸説あり、いろいろと複雑です。

 満州事変に関しては、日本軍の行為をみれば満州住民に対する侵略と言えると思います。しかし、その後、中華民国とは停戦協定も締結しています。それにより満州事変は一応終息しています。また、当時と現在では侵略の定義が違う場合もあり、より諸説複雑にしています。だから、諸説あり非常に複雑です。

 歴史的に見て、山海関以東、万里の長城以北の地域は、歴代中国の王朝にとって、勢力が強い時に実効支配するという感じになると思います。また、ハルノートにおいて米国も、日本に対して満州からの撤退は求めていない説が有力てす。

 日本が中国(中華民国)の実効支配地域に対して、一義的に侵略したと諸説がまとまるのは日中戦争以降になると思います。

2020/03/01 (Sun) 10:23 | | 編集 | 返信

(2)コメントを拝読して

 2560の(4)(5)は、これから書く「なぜ社会主義国・中国は土地所有ができないのか?」へ結びつける意図で書きました。

>当時の満州は中華民国の明確な実効支配地域ではなく、軍閥の支配地域であったため、 

 当時の満州は北伐の完成後ですから、一応、中華民国の支配地域と言えます。釈迦に説法かもしれませんが、北伐とは、1926~1928年に蒋介石率いる中国の国民革命軍が、北方の軍閥を攻め滅ぼして中国を統一する動きのことです。

 北伐の完成で中国の一応の統一が完成したのですが、その内実は軍閥連合の域を脱してませんので、ご指摘の主張が出てくるのだと拝察いたします。

 張作霖の子・張学良は、満州を狙っていた日本の指示を無視して、張学良勢力下の満州を国民政府支配下の土地と認めました。つまり中華民国の支配地域である事を認めたのです。これを北伐の完了または北伐の完成と言っているのです。

>中華民国とは停戦協定も締結しています。

 中華民国と停戦協定を締結したという事は、様々な事情があるとは言え、満州が 中華民国の支配地域だった事を示しています。これまた釈迦に説法かもしれませんが、この停戦協定は、河北省塘沽(タンクー)で結ばれたので、塘沽停戦協定と言います。

>歴史的に見て、山海関以東、万里の長城以北の地域は、歴代中国の王朝にとって、勢力が強い時に実効支配するという感じになると思います。

 万里の長城以北の地域を支配できた中国の王朝は、元々万里の長城以北にいた連中が建国した王朝だけです。つまりです。

 漢民族の王朝は勢力が強い時ですら、万里の長城以北を支配できていません。
元滅亡後、漢民族の王朝・が1368年に朱元璋(洪武帝)によって建国されました。元を建国したモンゴル民族は北に退き北元となりました。当時の万里の長城はそれより遙か昔に建設された長城であり、防衛力に難があったので、明は新たに万里の長城をたくさん建設しました。その結果、現在の私達が中国を観光して見る事ができる万里の長城の多くは明時代の 万里の長城です。
 
>日本が中国(中華民国)の実効支配地域に対して、一義的に侵略したと諸説がまとまるのは日中戦争以降になると思います。

 安倍晋三首相が戦後70年談話の作成のために設けた私的諮問機関「21世紀構想懇談会」の座長を務める西室泰三日本郵政社長は2015年8月6日、首相官邸で首相に報告書を手渡しました。

 報告書では「(1931年の)満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」と明記し、先の大戦を侵略戦争だったと位置づけました。

 つまり日本政府が満州事変を侵略の起点だと認めているのです。一般的に極右とみなされている安倍晋三政権のもとで認めているのです。

(3)清→中華民国

 日清戦争の敗北で清の動揺は深まり、列強による中国分割が進み清は危機に陥っていました。開明派官僚による戊戌の変法という近代化の試みは西太后などの保守派の抵抗で失敗に終わりました。近年、西太后は愛国者で結構良い人物だったという評価が出てきています。

 西太后の様にぼろくそに言われている人物は愛国者で、良く扱われている人物が売国奴であったという例が結構あるのかもしれません。

 1900年に起きた義和団事件に際して清朝は列強と戦って敗れ、ついに政権内部でも立憲君主制政への移行を模索する光緒新政<1901年からの西太后らによって行われた清朝最末期の上からの改革。光緒帝は幽閉中だったので、「光緒新政」とは光緒帝が行った新政という意味ではなく、光緒年間に行われた改革、と言う意味です。>科挙の廃止や憲法大綱の制定など、一定の近代化を実現しましたが、清朝による満洲人の支配に対する漢民族の不満は解消されませんでした。

 1911年、孫文らが中心となって清朝を倒し、1912年1月に孫文を臨時大総統とし、中華民国を樹立しました。中国で秦の始皇帝以来続いた皇帝政治が終わり、中国はアジアで最初の共和制国家になった。つまり中国は君主制をやめたのです。実に結構な事です。日本も早急に天皇制を打倒して、日本人民共和国を樹立しよう!

 この清朝打倒の動きを辛亥革命といいます。しんがい(辛亥)革命は清朝の支配層にとってはさぞかししんがい(心外)だったと思われます。

(4)軍閥時代

 1912年1月1日、孫文が南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統となりましたが、支持基盤は弱く、外国の支援もなかったので、孫文は袁世凱の要求を入れ、清朝皇帝の退位を条件として地位を袁世凱に譲ることを認めました。

 2月12日、清朝最後の宣統帝が退位すると翌日、孫文は臨時大総統を辞任し、後任に袁世凱が就任しました。彼の率いる新軍は北洋軍閥といい、事実上私兵としてその独裁を支えました。

 1914年、第一次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言しましたが、日本はドイツ基地のある青島を占領、さらに翌15年に袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけました。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府はそれを受諾、激しい非難を受けました。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしましたが、第三革命と言われる袁世凱帝政反対運動が起こり、日英露仏の列強も帝政に反対したためあきらめざるをえなかった。

 失意の内に袁世凱は1916年に死亡、北京政府は軍閥安徽派段祺瑞に継承され、軍閥の抗争が続くこととなりました。この1916年の袁世凱の死去から1928年の北伐の完成にかけての中華民国が内戦状態となっていた時期を軍閥時代と言います

(5)中国国民党と中国共産党
 
 この間、文学革命の影響を受けた五・四運動が起こりました。一方、ソ連ではカラハン宣言が出され帝政ロシアの既得権益破棄と民族運動の支援が示されました。これらを受けて孫文は中華革命党を中国国民党へと変えました。

 その後、孫文・ヨッフェ会談で大衆の国民革命の実現性を考え、ボロディンの勧告によりすべての革命勢力を中国国民党の下へ結集することになりました。それが中国国民党1全大会でした。ここでは「連ソ・容共・扶助工農」のスローガンのもとで国共合作が行われました。革命勢力の結集に力を尽くした孫文は1925年3月に逝去しました。

 1925年5月、中華民国で5.30事件が起こりました。当初は反日ストライキだったのですが広範な反帝運動に発展し、民族意識が昂揚していきました。こうした中で、7月に広州を中心として広東国民政府が成立しました。

 1926年7月、広東国民政府は軍閥を滅ぼし中国を統一するため、第一次北伐を開始しました。広東国民政府は順調に勢力範囲を広げ、武漢政府を樹立しましたが、この政府は国民党左派と中国共産党が中心でした。

 これを危惧したのが保守派の蒋介石でした。彼は欧米と浙江財閥の支援を受けて、上海クーデタを実行、1927年4月に南京国民政府を作りました。こうして中国共産党は排除され、国共分離となりました。

 1928年4月、蒋介石は中断されていた北伐を再開しました。これが第二次北伐です。この北伐の敵となったのが日本の田中義一内閣でした。国民政府の統一により強力な政権が樹立されることを警戒した田中義一内閣は、3回にわたるシャントン<山東>出兵を行い、北伐の北上を妨害しました。

 第二次出兵の時には悪辣極まりない日本軍によって済南事件が引き起こされました。さいなん<済南>事件は中国人にとってさいなん<災難>だったのです。北伐軍は迂回して北京を目指しました。北京を支配していたのは、奉天軍閥の張作霖でしたが、北伐軍に敗れ北京を放棄しました。

 張作霖は奉天に帰る途中で悪辣極まりない日本の関東軍によって爆殺されました。北伐軍は北京入場を果たしました。中国東北地方の実権を握った張作霖の息子張学良は日本につくよりも国民党に恭順する意志を示したので、1928年12月末、ついに北伐は完成し、中国の統一が完成しました。

(6)中国革命の進展流れ図

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↑画像 中国革命の進展流れ図©世界の歴史まっぷ 出典はこちら

(7)北伐当時の中国地図

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↑画像 北伐当時の中国地図©世界の歴史まっぷ 出典はこちら

(8)北伐と国共分離

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↑画像 北伐と国共分離 (中国革命の進展)©世界の歴史まっぷ 出典はこちら


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東京事変 ライブ強行

2020/03/02 (Mon) 13:17 | URL | 編集 | 返信

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