224.ダイアナ妃はイギリス王室によって暗殺されたのか?

↑画像:ダイアナ妃
(1)拙ブログ「38.関東地方在住者の80%が、3年後に死亡するのか?」が、有名な「阿修羅」に取り上げられていた!
お早うございます。この224番の記事は、次の「225.ローマ法王ベネディクト16世が、在任中に突然引退を発表したのはなぜか?」と連続する予定です。この記事をお読みになったら、いずれ近い将来UPされる225番の記事もお読み下さい。
前回の記事で取り上げた38番の記事の最後の方に、「その1984年の夏は、夏らしい暑い夏だった。故に飯山一郎の見通しは違うような気がする。」との記述がある。
飯山一郎はちょうど約1年前の今頃、ご自分のブログで盛んに「今年の夏は冷夏になる」と繰り返していた。
過去の歴史から考えると、その見通しは違うような気がすると思い上記のように綴った。結果は、私の見通しが当たった。
前回の記事をUPした後、驚くべきことに気づいた。拙ブログ「38.関東地方在住者の80%が、3年後に死亡するのか?」が、有名な「阿修羅」に取り上げられていたのだ。
「阿修羅」には「乖離のぶろぐ」と書いてあるので、「乖離のぶろぐ」も取り上げられたのかもしれません。と書いた後、取り上げられたことが判明しました。
よく考えてみると、「乖離のぶろぐ」が取り上げて下さって、その後「阿修羅」をはじめあちこちで取り上げて下さったと言うのが真相のようです。
その「阿修羅」によれば、福島県の飯舘村で、赤ちゃんの出生について異常事態が発生している。
男女の出生比率に極端なかたよりがみられる。福島県が発表している資料を集計したところ、2011年12月から2013年1月までに、女児が36人生まれたのに対し、男児は18人しか生まれていないことが判明した。
さて、更にCHECKを加えると、<福島県は「放射能死灰の町」となった>と言うブログでも、拙ブログの当該記事が紹介されていました。
<再生 「再び生きる」>と言うブログでも取り上げられている。拙ブログの当該記事は、ウェブ魚拓がとられていることが判明しました。<再生 「再び生きる」>では、拙ブログの当該記事のウェブ魚拓に飛ぶようにリンク先が貼り付けられています。
ソーシャルニュース Ceron.jp[セロン]にも取り上げられている。更にここにも取り上げられている。あっ、ここにも。えっ、ここにも。他にもこーんなに。
この記事に限らないが、Twitterでも結構取り上げられていることが判った。
それにしても、「38.関東地方在住者の80%が、3年後に死亡するのか?」をUPしたのは、2012年2月26日なのに、阿修羅に取り上げられたのは、2012 年 9 月 18 日と半年以上も後でした。
あちこち拡散される元をつくって下さった「乖離のぶろぐ」が取り上げて下さったのが、2012 年 8 月8 日、<再生 「再び生きる」>が取り上げて下さったのが、翌日の2012 年 8 月9 日でした。
(2)3月1日 福島原発公開
さて、「216.反原発派の皆様、しんぶん赤旗の福島第1原発取材申し込みを拒否した東電を徹底糾弾しよう!」で紹介した2013年3月1日の福島第一原発内部公開のニュースです。
20130301a福島第一原発の建屋は地震で壊れて地下水... 投稿者 bakaTepco15
20130301b福島第一原発の建屋は地震で壊れて地下水... 投稿者 bakaTepco15
(3)CANDLE IN THE WIND 1997
1997年の全米年間CHARTのNO1はこの曲でした。それはエルトンジョンがダイアナ妃葬儀で追悼して歌った曲である。艶があり良く伸びる声は悲しみの想いとなってウェストミンスター寺院から世界へ伝わっていった。
その曲は、「キャンドル・イン・ザ・ウィンドウ 1997」です。この曲は、1973年にリリースされたエルトンの2枚組のアルバム『 Goodbye Yellow Brick Road 』に収録されたマリリン・モンローに捧げられた曲の詞を変えたものです。当時、高校生だった私はこの2枚組のアルバムを購入しました。
このALBUMに入っていたそもそもの「Candle in the Wind」は、アメリカでのシングル発売はなかった。
その後、1987年にオーストラリアでのライブ音源がアルバム『エルトン・スーパー・ライヴ 〜栄光のモニュメント〜』に収録され、同年にシングルとしても発売された。全英チャートで最高5位。このバージョンはアメリカでもシングル発売され、Billboard Hot 100で最高6位を記録した。
そして、今回話題にしている1997年のリメイク版となるのである。このElton Johnのリメイク版「CANDLE IN THE WIND 1997」は、全英シングルチャートでNO1となったのはもちろん、アメリカのBillboard Hot 100で、97/10/11-98/01/10の14週連続NO1でした。
この曲は、世界で2番目に売れたシングルです。世界で1番売れたシングルと記載しているブログがありますが、間違いです。
この曲は、日本のオリコン週間ランキングのNO1も獲得しています。97/10/06-97/10/13の2週連続1位でした。「キャンドル・イン・ザ・ウインド~ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」と言う邦題でした。
長年にわたるオリコン週間ランキングの歴史の中で、洋楽が1位になることは極めてまれです。今世紀に入ってからは確か一例もないと思います。
1位にとどまった週をベースに考えると、日本における洋楽の最大のHITは、95/12/04-95/12/11と95/12/25-96/01/01のTOTAL4週1位のセリーヌ・ディオン with クライズラー&カンパニーの「TO LOVE YOU MORE」です。
1990年代の「Rick Dees Weekly Top 40」で、日本で1位になったということで、この曲を番組で紹介していました。
(4)ダイアナ・プリンセス・オブ・ウエールズ・メモリアル・ファウンテン<ダイアナの泉>
ダイアナの泉は、ダイアナ妃を記念して、2004年に、ハイド・パークに造られた人口の泉です。2方向に分かれた水が 静かに流れるさまは、ダイアナの人生を象徴したもの。泉は円形になっています





↑画像:ダイアナ・プリンセス・オブ・ウエールズ・メモリアル・ファウンテン<ダイアナの泉>
(5)ダイアナ・スペンサー
1961年7月1日生まれのダイアナ・スペンサーは、英国王室スチュアート朝のチャールズ2世、ジェームズ2世の末裔である。スチュアート朝もチャールズ2世もジェームズ2世も、多くの世界史ので太字で登場する。
ステュアート朝は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国<イギリス>を成立させた。
チャールズ2世は、ピューリタン革命後の王政復古で即位した国王である。1630年、やがてピューリタン革命で斬首されることになるチャールズ1世と王妃でブルボン朝初代のフランス国王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。
チャールズ2世の次の国王が、チャールズ2世の弟に当たるジェームズ2世である。ジェームズ2世は、名誉革命によって王位を逐われ、王国はウィリアム3世・メアリー2世の共同統治となった。
スチュアート朝のジェームズ1世は、チャールズ皇太子とダイアナ妃の共通の祖先です。
さて、ダイアナはごく小さい頃からエリザベス女王のことは知っており、王室の子供たちとも遊んでいた。
ダイアナの記憶によると、愛情からではなく、長い休みになるとその度に毎年女王の屋敷に行かされ、『チキ・チキ・バン・バン』という映画ばかり観させられたそうである。
この映画には、子供が大嫌いな王と女王が出てくる。二人が雇った「子供さらい」が子供たちを誘い出し、誘拐して檻に放り込む。捕まった子供たちは城へ連れていかれ地下牢に監禁される・・・と、このように話は展開するのだが、これは実際に行なわれていることを象徴したものであり、ウィンザー家がこれを何度もダイアナに見せたというのは偶然とは思えない。
ダイアナはこの時点で、サンドリンガムのウィンザー家の妙な空気を感じ取っていたようで、「・・・そこへいくときには、私を連れて行こうとする者に私はしばしば抵抗し、蹴飛ばしたり暴れたりした。」 そしてウィンザー家は、ダイアナが生まれた瞬間から彼女に目をつけていたと言われている。
1969年にダイアナの両親は離婚した。ダイアナの学校の成績は、それほどかんばしくなかったと伝えられている。
ダイアナの心がとくに荒廃していったのは、父親が再婚してからだった。心に苦痛を抱える人々にダイアナが示す感情移入は、彼女自身が生涯背負っていた心の傷からきていた。
13歳の少女・横田めぐみが新潟から拉致された1977年当時、チャールズはダイアナの姉セーラと関係を持っていたと言われている。そのときダイアナは16歳で、ウィンザー家が彼女のために本当に動き出すのはそれから三年後だった。
皇太后とレディ・ファーモイ(ダイアナの祖母)のお膳立てで、ダイアナはチャールズ30歳の誕生日を祝うパーティにバッキンガム宮殿へと招待された。その翌日、チャールズに招待され、ダイアナは結婚の申し込みを受け入れた。「あなたをとても愛しています」とダイアナは言い、「愛がいかなるものであろうとも」とチャールズは答えた。

↑画像:ダイアナ妃のフラワーガールとブライズメイドたち
ダイアナが保育士をしていた頃、チャールズとの関係がマスコミに漏れ、彼女の生活が大衆の目に触れるようになって、常にスポットライトが当るようになった。ウィンザー家との悪夢もこのときから始まる。
振り返ってみてダイアナは、チャールズが自分だけを愛したことなど一度もなかったことを知った。チャールズが本当の愛人カミラ・パーカーボウルズと関係があることも結婚する前からわかっていた。この関係は結婚してからも続いた。
ウィンザー家がダイアナに望んだことは、スペンサー家の遺伝子を持った跡継ぎを産むことで、彼女はそれだけの存在、いわば「孵卵器(ふらんき)」でしかなかった。
チャールズとの婚約から1週間後、ダイアナの拒食症が始まった。ダイアナによると、拒食の引き金は、チャールズが腰に手を回して言った、「おや、ここ少しぽっちゃりしてないかな?」という言葉だった。
ダイアナは結婚前からすでに情緒不安定だった。ダイアナによると「チャールズの態度は、変化が激しく、熱くなったと思ったらすぐ冷たくなり、その上がったり下がったりを激しく繰り返した。一緒にいてもチャールズは母親を怖れ、父に脅え、私はいつも二の次の存在だった。」
1982年6月21日の夏至の日に、ダイアナはウィリアム王子を生んだ。更に、1984年9月にダイアナはヘンリー王子を生んだ。そして1992年、ダイアナとチャールズは別居し、1996年に離婚した。そのほぼ1年後、ダイアナは死んでしまった。
(6)ダイアナはなぜ死んだのか?
1997年8月31日、フランスの首都のパリで、ダイアナは当時の恋人大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280のハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。36歳という若さであった。
イスラム教徒であるアルファイド、そして将来的に英国国教会の首長の母となるダイアナ妃。この2人の関係は英国王室にスキャンダルを呼ぶおそれがあるため、未然に防ぐために2人は殺されたと多くの人が信じた。当時の世論調査では、イギリス人の4人に1人、そしてアラブ諸国の過半数が、これは英国王室により画策されたものだと疑わなかったのである。
この陰謀論が広まった理由は、ダイアナがアルファイドとの結婚を示唆していたこと、彼女がイスラムへの改宗を意図していたこと、そして彼女がアルファイドの子どもを妊娠していたこと、さらにメッカ巡礼を考えていたこと、などが挙げられている。
また陰謀論者によれば、彼女を殺した組織は英国王室のほかに、フランス諜報部、報道関係者、イギリス情報局保安部(MI5)、イギリス情報局秘密情報部(MI6)、米中央情報局(CIA)、イスラエル諜報特務局(モサド)、秘密結社フリーメーソン、アイルランド共和国軍(IRA)などが考えている。
彼女は地雷廃絶反戦平和活動の実践者だったので、ジョンレノンらと同様に殺害されたのだとする説もあります。
ジョンレノンやマイケルジャクソンと同様に、彼女も逝去する前に、品格を貶める攻撃を受けた。これは所謂「死の商人」による攻撃だと見ることもできます。
ドディ・アルファイドは、アカデミー作品賞を受賞したイギリス映画「炎のランナー」の映画プロデューサーであった。そのため、ダイアナ妃との熱愛に陥る前には、女優のブルック・シールズとできあがり、その艶聞はあまねくビヴァリーヒルズに知れ渡っていた。
ドディの父モハメッド・アル=ファイドは、イギリス王室御用達のデパート「ハロッズ」のオーナーとして有名なアラブ人大富豪であった。彼は、54年にサミラ・カショーギという女性と結婚し、その兄アドナン・モハメッド・カショーギの義弟となっていた。そのあいだに生まれたのが、ダイアナ妃と一緒に死んだ恋人ドディである。しかしドディの父は、なぜ豪華デパート「ハロッズ」を買い取るほど巨額の金を持ち、大富豪だったのか。
ドディの伯父にあたるアドナン・カショーギは、66年、サウジアラビアのファイサル国王に同伴してアメリカを訪問した。ファイサル国王は、ニューヨークなどで重要なアラブ外交を展開したが、同伴者のカショーギは、さらに重要な非公式の昼食会に出席していた。
そこに、誰が集まっていたであろう。ロッキード社、マクドネル・ダグラス社、レイセオン社、クライスラー社、リットン・インダストリーズ社など、全米の軍需産業の社長・会長クラス、最高幹部がずらりと顔を揃え、カショーギを囲んで、ある世界情勢について、危険な会話をはずませていたのである。ライバルである彼らが一堂に会するのは、尋常な出来事ではなかった。
やがてモハメッド・アル=ファイドは、義兄カショーギの秘密事業で総支配人となり、全米を代表するそれらの軍需産業から、莫大なコミッションが支払われるようになった。ジュネーヴにあるスイス銀行のカショーギ口座に、大金が振り込まれるようになったのである。
軍需産業の代理人となったカショーギは、返す手で、ヨーロッパ全土と日本に大金をばらまいて世界的ロッキード事件をひき起こしたのち、フィリピンのマルコス大統領をワイロぜめにした。80年代には、イラン・コントラ事件で、主役をつとめた。そのころ、女優のブルック・シールズは、カショーギのメッセンジャー・ガールであることが全米に知れ渡った。彼女の当時の恋人は、まだドディではなく、カショーギの息子モハメッドだったのだから。
これらは、発覚した中のわずかな事実である。ほとんどは発覚せずに、アドナン・カショーギの名前は、全世界の戦乱の陰に暗躍する〝死の商人〟として、欠かせない代名詞となった。サウジの兵器商ではなく、アメリカとヨーロッパの軍需産業がひき起こす戦争の火付け役として、アル=ファイドと共に、数百万から一千万人単位の生命を、傷つけ、あるいは、この世から消す役割を果してきた。
その商品のひとつが、地雷だったのである。
兵器商人カショーギの親友は、国連のユニセフ幹部たちであり、彼の指一本で、ハリウッド映画の大スターたちも動かされてきた。
チャールズ皇太子の秘密の恋人カミラ・パーカー=ボウルズの母ロザリンドの近親者が、ピーター・キャリントン卿であった。国連代表として、ユーゴスラビア内戦の調停人を装いながら、実際にはカショーギと共に国連部隊を通じて戦場に兵器を送り込んだヨーロッパ軍需産業の総帥キャリントンだったのである。ダイアナ妃の実母が再婚したシャンド家である。
ダイアナ妃が、96年にチャールズ皇太子と正式に離婚するにあたって、彼女がエリザベス女王に請求書をつきつけた〝慰謝料〟は、膨大な額におよぶものであった。
22億円を超えるケンジントン宮殿をはじめとして、年金5億円のほか、イブニングドレス120着、ドレス300着、靴350足、帽子320個、バッグ200個、無数の貴金属宝飾品、骨董品など、残念ながら知的な物はほとんどなく、ただただ値段のはる品ばかりが並んでいた。
知的な物などあるはずがないだろう。彼女は極端に勉強を嫌い、成績は悪かったのだから。
そういう人物をマスコミが脚色するので、聡明ではない人々は、彼女を聡明だと誤解してしまう。
小泉ジュニアを筆頭に、無能な、河合塾が言うところの「Fランク大学」出身の世襲政治家が増えている自民党なので、マスコミによって聡明ではない政治家を脚色して聡明に見せる手法が増加の一途をたどるだろう。
聡明ではない人々は、そうした政治家を聡明だと誤解してしまう。
ダイアナ妃の死後、その遺産は45億円を越えることが明らかにされた。フィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコス大統領夫人イメルダが集めた靴やドレスは、全世界の怒りを呼び起こしたが、ダイアナの遺産が批判されることはなかった。
ダイアナ妃の未来の夫ドディの父アル=ファイドと伯父カショーギが、ドディのハリウッド映画作費を生み出し、地雷をユーゴに敷きつめていたことは、彼女にとって、常識以前のことであった。
彼女が地雷をこの世からなくす運動を呼びかけたという根強い伝説は、これからも繰り返し語られるだろう。
そして、「信じるか信じないかはあなた次第」と言えるある説があります。それは、
彼女がイギリス王室のあるおぞましい事実を知ってしまったから、イギリス王室によって殺害されたとする説なのですが、今回の記事が長くなりましたので、詳細は次の記事をお読み下さい。
昨夜<2013年3月2日>遅く、吉祥寺の殺人事件の容疑者<吉祥寺刺殺事件の殺人鬼><18歳の少年>が出頭しました。

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