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2385.沖縄は長い間武器を持たない歴史が続きました

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↑画像 2019クリスマスシリーズ13 〒105-8002 東京都港区浜松町一丁目31番 文化放送 「レコメン!」菅井友香 月曜レギュラー生放送です 欅坂46 菅井友香 出典はこちら

(1)横浜の原点

 「2384.1851年生まれと1852年生まれの大きな差」の続きです。

 後に開港場となる地域には、当時寒村だった横浜村等いくつかの集落が存在していた。横浜村は、幹線道路の東海道から離れた場所で、江戸との交通が便利な場所とは言えなかった。

 開港場の中心となった横浜村は、地形的には砂州上にあり、その砂州に囲まれるように「洲乾の湊」という小さな港と釣鐘状の入江があった。砂州の先端には弁天社があり「洲干弁天」と呼ばれていた。釣鐘状の入江は江戸時代を通じて新田開発され、「洲干の湊」の周辺には戸部・太田・蒔田・堀の内・中村の村々があった。

 最初に「横浜」の新市街地を形成したのは、横浜村に太田屋新田を含めた地域である。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、開港直前には戸数僅かに101 戸だったと言われ、現在の神奈川県庁付近以東に位置していた。横浜村は当時の主要幹線道路である東海道から離れ、東海道とは神奈川宿や保土ヶ谷宿を介して結ばれていた。神奈川宿との間には野毛山があり、海沿いに断崖をなしていたため、陸路では浅間町-平沼新田-戸部-野毛山-伊勢佐木長者町-車橋-横浜村という遠回りの経路を通らざるをえなかったので、神奈川宿との連絡には主に舟が利用されていた。陸路では保土ヶ谷宿への道、すなわち、保土ヶ谷宿-戸部暗闇坂-野毛-伊勢佐木長者町-車橋-横浜村の経路が利用された。

(2)沖縄戦

 2384の(4)に「国民義勇隊や沖縄戦を考慮しなければ、」と書きました。極悪権力者どもは沖縄戦で41歳以上の人たちや17歳に満たない若者、さらに身体障害者なども問答無用で防衛隊という軍隊に組み込み戦争に参加させました。

(3)沖縄は長い間武器を持たない歴史が続きました

 沖縄は長い間武器を持たない歴史が続きました。明治時代になって、いきなり「徴兵検査」という軍隊の制度が持ち込まれてきましたが、それに対して沖縄の人たちははっきりと拒否反応を示しました。

 例えば、徴兵検査に親族一同でやってきて、「検査不合格」が出ると大喜びをし、家ではお祝いをしました。逆に「検査合格」となると一族一同、葬式並にお悔やみを言い合いました。
(参照「日本軍は沖縄県民をどう見たか」)

 しかしその後沖縄県民は、悪辣極まりない「教育勅語」に基づく皇民化教育で、「天皇のために命を捧げることが名誉なこと」だと洗脳されていきました。

 その為、多くの人たちは、戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと考える様になっていきました。俗にいう「軍国少年少女」の誕生です。

 沖縄戦が避けられないことが十分予想された頃、軍と県の協力を受けた学校からの「学徒隊参加の親の承諾書」も、多くの子どもたちは説得してでも親の承諾を得ましたが、中には親の反対を押し切って勝手に参加届を出した子どももいました。また、体が弱かったり、集合時刻に間に合わなかったりして、参加出来なかった為に悔しい思いをした子どももいました。

 しかし、これらのことが真に「戦争に行きたい」という子どもの思いを表しているのかどうかは疑問です。なぜなら、「戦争に行きたい」という気持ちと「戦争に行かなければならない」という気持ちは違うものです。真面目な性格の沖縄の子どもたちが、「行きたい」のではなく「行かなければならない」と強く考えたとしても不思議ではないからです。

 また、「行きたくない」が通る社会ではありませんでしたから、逆に「行きたい」と言って自分を納得させていたのだとも考えられます。自分の本当の気持ちを表に表すことができない社会の中で、自分の本当の気持ちをごまかすことによって、自分の苦しさから逃れていたのかもしれません。

 一方、もっと上の成人した大人たちはどうだったのでしょうか。多くの証言からわかることは、個人差があって全体としてなんともいえませんが、多くの人は、戦争に対して「いやだ」という気持ちを持っていました。しかし、それを言える社会ではなかったという証言もたくさんあります。

1311.『白旗の少女 琉子』と『さとうきび畑の唄』 その2
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1309.『白旗の少女 琉子』と『さとうきび畑の唄』 その1
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1302.沖縄全戦没者追悼式終了後、安倍晋三は笑いながら帰った!
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(4)徴兵令

 明治維新後、権力の中央集権化を進める政府にとって、諸藩が有する独自の軍事力(藩兵)は脅威であった。それに対抗するため、政府は直轄の軍事力を整備するとともに、藩体制の解体をめざしていった。しかしながら、財政難や諸藩の抵抗によって簡単には実現しなかった。

 1871(明治4)年2月、政府は西郷隆盛の協力を得つつ、薩摩・長州・土佐の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵(後の近衛兵)を編成、その力を背景として7月に廃藩置県を断行した。さらに地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮台・分営を配置し、旧藩の兵力を集めていった。現在の神奈川県域(武蔵・相模)は東京鎮台の直轄となり、東京鎮台の下には第1(新潟)、第2(上田)、第3(名古屋)の三つの分営が置かれた。

 続いて1873年1月10日、徴兵令布告され、士族以外の人びとにも兵役が課せられることになった。同日、陸軍省は「今般徴兵令被相定首トシテ東京鎮台管下ノ府県徴兵被仰出、来ル二月十五日ヨリ徴兵使発行候」とし、神奈川県に対して徴兵検査にむけた準備を求めた。橘樹郡生麦村の戸長を務めた関口家の日記には、2月14日に「今朝、第十三区村々徴兵御取集之儀ニ付、御呼出しニ相成、御役所へ出勤、先日中、御布告ニ相成候国中一般、当酉年二十才ニ相成候者、名前取調書上候積」と記されており、村々でも検査の準備が進んだ。その後、3月9日に検査を担当する徴兵使が横浜に到着、14日まで野毛山学校を徴兵署として第1回の検査が実施された(『神奈川県史料』第一巻、『横浜毎日新聞』1873年3月20)。

 横浜桟橋の風景
↑画像 横浜桟橋の風景 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年4月14日付 横浜開港資料館蔵 出典はこちら

(5)第2回徴兵検査

 一方、東京鎮台は5月14日に歩兵第1連隊を編成、旧藩兵から構成される教導団の歩兵5番大隊をその第1大隊とし、徴兵で集めた神奈川県出身者などで新たに第2大隊を編成した。第1回の検査で招集された人びとは、6月までに第2大隊に入隊していった。

 その後、翌74年2月に本町の生糸会社を徴兵署として第2回の検査が行われ、歩兵として67人が軍隊に入ることになった。このなかの一人が軍隊手帳の持ち主である金子増五郎であった。

 軍人の身分や経歴を示す軍隊手帳は、昭和期を中心に数多く残っているものの、明治初期のものは珍しく、全国でも数えるほどしかない。特に増五郎の手帳で特徴的なのは、①徴兵制施行の翌年、すなわち1874(明治7)年から使用されている点と、②西南戦争への従軍記録がある点の二点である。

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↑画像 金子増五郎の軍隊手帳 縦145mm×横85mm 和装 出典はこちら


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