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2139.産業革命が起こる前は労働時間が現代よりもずっと短かった<早急に資本家階級を打倒し社会主義革命を成就しよう! PART2>

柏木由紀 - イビサガール
↑画像 2019・夏・海44 2019水着シリーズ31 柏木由紀 イビサガール 

(1)山太ひとり孤塁を守る

 「1516.早急に資本家階級を打倒し社会主義革命を成就しよう!」の続きです。

藤原直哉‏ @naoyafujiwara 「東京オリンピックに反対」、国会議員700人の中でたった1人!山本太郎代表に評価の声が相次ぐ!
https://twitter.com/naoyafujiwara/status/1165997219121549312

にゃん吉‏ @umetaro_uy 山本太郎「オリンピックで誰が得をするか。それに関わる企業、ゼネコン。税金、色んな所から甘い汁を吸う為。その結果残されるのは負の遺産だらけ。長い間、野宿生活で命を繋がれてる方々の場所が公園。追い出しが行われ人権侵害。そんな国がオリンピックをする資格があるのか」 そんな資格は全くない
https://twitter.com/umetaro_uy/status/1163990304560562177

 あっぱれ山本太郎ですね。この(1)のタイトル「山太ひとり孤塁を守る」はどこから来たかお解りですか?

(2)山宣ひとり孤塁を守る

山本宣治
↑画像 山本宣治 出典はwiki

 1889年に京都府で生まれた山本宣治は、敗戦前の政治家であり生物学者でした。山本宣治を略して山宣と呼ぶことがあります。そうです。(2)のタイトルの「山宣ひとり孤塁を守る」の山宣とは山本宣治の事です。劇画にもなっている有名人です。人類の歴史を大きく前進させた一人です。

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↑画像 劇画 山本宣治

 山本宣治は1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャンだった。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された。

 昭和天皇が生まれた1901年、山本宣治は神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。

 園芸家を志して1906年、大隈重信邸へ住み込み、園芸修行を行った。1907年からカナダのバンクーバーに渡った。5年間、皿洗い、コック、園丁、鮭取り漁夫、列車給仕、伐木人夫、旅館のウェーター等30余種の職業を転々とした。その傍ら小学校、中学校に通った。辛亥革命が起きた1911年、父が病気のため急遽帰国した。

 この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。

 中華民国が建国された1912年、山本宣治は同志社普通部4年に入学した。第一次世界大戦が勃発した1914年、丸上千代と結婚し、長男英治が誕生した。ロシア革命が起きた1917年、28歳の時に第三高等学校第二部乙類を卒業し、東京帝国大学理学部動物学科に入学した。1920年、同大学を卒業した。論文は『イモリ精子発達』。理学士の称号を得た。主に日本史や世界史の授業を多く担当してきた私が取得した学位は、経済学士です。

 山本宣治は大学を卒業して直ちに京都に帰り、京都帝国大学大学院に入学、染色体の研究に着手した。傍ら同志社大学講師として『人生生物学』、『性教育』を講じた。1921年、京都帝国大学医学部講師として大津臨湖実験所に通った。

 1922年3月、訪日していたアメリカの産児制限運動家マーガレット・サンガーと意見を交換して熱心な産児制限研究家となった。サンガーに啓発された山本は、性教育啓蒙化の普及と産児制限の必要性を痛感し、安部磯雄や義弟の安田徳太郎と共に「産児制限運動」(山本自身は「産児調節」の語を使った)を展開していった。同年4月、サンガーの著書を『山峨女史家族制限法批判』のタイトルで小冊子に翻訳し発行した。同年12月、来日していたアインシュタインを安田徳太郎と訪問し、翻訳していたゲオルグ・ニコライの『戦争の生物学』の序文の執筆を依頼した。

 1923年、京都帝国大学理学部講師となった。各地に於いて性教育、産児制限の講演を行った。産児制限運動で知り合った三田村四郎九津見房子夫妻と共に「大阪産児制限研究会」を設立した。山本は彼らを通じて左翼系の社会運動との関わりを強めていった。

 山本宣治は1924年1月、西尾末広などが設立した「大阪労働学校」の講師に就任した。西尾末広も後に戦争推進勢力に屈服した奴の一人だ。1942年の翼賛選挙では、「お国の為に血を流せ!」と絶叫した。「821.祝・ロシア革命100周年!」に書いた通りです。

 「お国の為に血を流せ!」は有名なフレーズですが、正しくは「死の商人の為に血を流せ!」ですね。

 山本宣治は1924年3月に「京都労働学校」の校長に就任した。しかし、同年5月、鳥取で産児制限の講演を行った際、その内容を警察官に激怒され、この出来事が新聞に載ってしまった。これが原因で山本は京都帝国大学を追放された。同年6月、大山郁夫らにより設立された「政治研究会」の京都支部設立に参加した。同年に既存の産児制限の理論とは違うアプローチをした「産兒調節評論」(後に「性と社会」と改題。別名Birth control、産児調節評論)を出版した。

 京都学連事件のため1925年12月に家宅捜査を受けた。この1925年に「世界に名だたる 悪法」である治安維持法が制定された。山本宣治は1926年、同志社大学を辞めさせられた。

 1926年3月、京都地方全国無産党期成同盟に参加した。同年5月、労働農民党(労農党)京滋支部に参加した。同年6月、京都で小作争議が起こりこれを指導した。 同年10月、議会解散請願運動全国代表に就任した。ここで山本は全国的に有名になった。

 1927年5月、普通選挙を前にした衆議院京都5区の補欠選挙に労農党から立候補要請を受けた。 当初は病気を理由に固辞していたが、水谷長三郎にまだ被選挙権が無かったことや共産党の要請もあり、労農党公認で立候補した。489票で落選したが(当選は立憲政友会の垂水新太郎、4843票)、制限選挙であり、この時点で有権者であった中産階級以上と対立する政策を掲げたことを考えれば善戦といえた。

 同年8月、父・亀松が死去し「花やしき浮舟園」の主人になった。同年12月、労農党京都府連合会委員長に就任した。

 翌1928年の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に京都2区から立候補し、1万4412票で当選した。 労農党からは水谷長三郎と2人の当選したが、山本は共産党推薦(当時は非合法のため非公式)候補であり、反共主義者の水谷とは一線を画した。

 同年、三・一五事件では事件を事前に察知していた谷口善太郎からの忠告を受け共産党関連の書類を全て処分していたため、事無きを得た。 しかしこの頃から、山本への右翼による攻撃が始まった。 

 第55・56回帝国議会では治安維持法改正<本質は改悪>に反対した。

 1929年3月5日、衆議院で反対討論を行う予定だったが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。 その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。

 死後、日本共産党員に加えられた。なお、母の多年も戦後共産党に入党した。 子は男3人女2人いたが、遺族は敗戦まで警察の干渉に悩まされた。 墓碑について権力側はこれは墓ではなく記念碑であるとして記念碑建立の手続きをさせ、数年間許可を出そうとしなかった。 碑文についても文句を付けられ、セメントで塗り潰すよう命じられた。 また、長男は三高と早稲田を受験したが、「自分の信念を突進んで大衆のために死んだ」父を尊敬していると面接で述べたところ、いずれも落とされてしまった(その後関西学院に入学した)。

 碑文は塗り潰されては何者かに剥がされるの繰り返しだった。敗戦後の1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭でセメントが取り外され、名実共に復旧した。

 なお、墓碑の「花屋敷山本家之墓」を揮毫したのは、宮廷歌人・書家の阪正臣であった。 阪は思想的には山本と対照的な立場であったが、母の多年が和歌で阪に師事したいきさつによる。

 山本宣治は帝国議会で治安維持法改悪反対を訴えた実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……(「背後には多数の同志が……」とするものもある)」という全国農民組合大会での演説の一節は、あまりにも有名で彼の碑銘でもある(この言葉は大山郁夫の筆で山本宣治の墓に刻まれ、その拓本は国会内の日本共産党事務所に飾ってある)。

 ただし、文字どおりに治安維持法改正に反対した者が山本一人だけという意味ではない。当時の帝国議会では、反対派は少数派であるけれども、無産階級の代表として反対する、というほどの意味である。 この墓碑銘の元となった全国農民組合第二回大会での演説については「卑怯者去らば去れ・・・・・・われらは赤旗守るであります。だが私は寂しくない(以下略)」であり、「『山宣』とか『孤塁を守る』などとは絶対いわなかった。」という証言もある。(西尾治郎平・矢沢保編『増補改訂版 日本の革命歌』1985年2月20日増補改訂版発行/一声社244~245ページ、西尾治郎平の証言)西尾治郎平は当日の大会書記をしていた記憶によるとしている。

 彼の生涯を描いた映画「武器なき斗い」(山本薩夫監督)がある。西口克己による彼の評伝『山宣』を映画化したもので、総評が中心となってその映画化に奔走し、勤労者などからのカンパによって映画化がなった。1960年の公開だった。

 当時産児制限運動の支持者の中には、優生学をその根拠に置き、人間の遺伝形質の改良を訴える者が少なくなかった中で、山本宣治は「種馬、種牛の様に人を産児の器械と見做して居る」と優生学を正面から批判した数少ない科学者であった。また、大正時代に厨川白村が主張した恋愛至上主義に対し疑問を呈した。

 山本宣治は性教育啓発家としての立場から当時「手淫」などと呼ばれ卑しむべき行為とされてきたオナニーの有害性を否定した。小倉清三郎とともにオナニーの訳語を「自慰」という言葉に置き換えることを提唱し普及させた。

1649.ヤマトタケルは毎日セックスとオナニーをしていた!<八幡製鐵所の高炉が敗戦まで空襲で破壊されることがなかったのはなぜか? PART2>
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-2026.html

 性科学者であり、小林多喜二の遺体を検視し、戦後『日本の歴史』『性の歴史』などベストセラーをあらわした医師・安田徳太郎は、山本宣治の従弟にあたる。

(3)産業革命が起こる前は労働時間が現代よりもずっと短かった 2019年08月26日 06時00分 GIGAZINE

https://gigazine.net/news/20190826-industrial-revolution-hours-workweek/

産業革

 18世紀に起こった産業革命によって、工場や機械などの生産手段を私有する資本家が労働者を雇用して商品を作って資本を得るという「資本主義経済」が生まれました。資本主義経済は雇用者と労働者の関係の上で成り立っていることから、労働環境の整備や労働者の権利といった問題も資本主義経済から生まれたといわれています。そんな資本主義経済を生んだ産業革命以前では「一般的な労働時間は現代よりも短かった」とボストンカレッジの社会学教授であるジュリエット・ショア氏が説明しています。

Preindustrial workers worked fewer hours than today's
https://groups.csail.mit.edu/mac/users/rauch/worktime/hours_workweek.html

 13世紀イギリスの農民の労働時間は、平均して年1620時間だったとのこと。また、14世紀後半に農民の賃金が高騰した時には、多くの労働者が毎日働くことを拒否し、一般的な収入を得られるだけの必要な日数だけしか仕事をしなかったといわれています。14世紀イギリスの労働者の場合、年間の労働時間は240日×6時間=1440時間と推定されています。

中世ヨーロッパ

 中世ヨーロッパでは1日の作業は日が出てから沈むまでで、夏だと約16時間、冬だと約8時間となっていました。さらに、仕事の合間に朝食・昼食・昼寝・夕食・休憩が挟まれ、労働は断続的だったとのこと。こうした休憩時間は労働者の伝統的な権利として認められていていた上に、農業の閑散期にはフルタイムで働かないことも多かったといわれています。ショア氏によると15世紀のイギリス農民の場合、労働時間は年1980時間程度だったと計算できるとのこと。

 また、中世の暦は休日が多く、クリスマス・イースター・夏期休暇の他に、教会が設定した聖人の休息日も多かったとのこと。こういった休日に人々は、教会で食事したり、お祭りに参加したと伝えられています。中世イングランドでは1年のおよそ3分の1が休みだったそうです。さらに、同時代のフランスでは52日の日曜日、90日の休息日、38日の休日が設定されていたとのこと。これは1年のうち180日、つまり半分が休みだったことになります。このことは16世紀にイングランド北東部のダラム市で司教を務めたジェイムズ・ピルキントン神父が手記に残しているそうです。

 資本主義経済が生まれる以前、中世で農耕生活を送っていた人たちは夜明けから夜遅くまで絶え間なく働いていたというイメージが抱かれがちですが、「このイメージは現代の作業パターンを逆投影したもので、真実ではありません」とショア氏は述べています。ショア氏によると、人々の時間が労働に奪われるようになったのは資本主義経済が生まれてからで、最も時間が搾取されていたのは19世紀半ば。例えば、1840年のイギリスの労働者は年に3105時間~3588時間、1850年のアメリカの労働者は年に3150時間~3650時間も働いていたといわれています。

労働環

 なお、アメリカではその後労働環境を見直す法整備が進み、1987年の労働統計局のデータによると、平均的な労働時間が年1949時間にまで抑えられたとのこと。また、1988年のイギリスでも、製造業に携わる労働者の平均労働時間が年1856時間にまで改善したと報告されているそうです。

(4)働きすぎは資本主義以降

鶴見済 『0円で生きる』発売中‏ @wtsurumi 「中世イングランドでは1年のおよそ3分の1が休みだったそうです。さらに、同時代のフランスでは…1年のうち180日、つまり半分が休みだったことになります」。働きすぎは資本主義以降だそうな。産業革命が起こる前は労働時間が現代よりもずっと短かった
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https://twitter.com/wtsurumi/status/1165972044070051840

↑鶴見済 『0円で生きる』発売中‏ @wtsurumi 中世イギリスの農民でさえ、今の日本人より労働時間が短いのだから、科学技術のレベルで見たら、本来週4日や3日の労働でみんなが食っていける状態になっているんじゃないか。
https://twitter.com/wtsurumi/status/1166326643629023232

↑鶴見済 『0円で生きる』発売中‏ @wtsurumi このままで行くとAIが行きわたっても、機械化が進んだり、PCが導入されたりした時と同じように、「なぜか誰も楽にならない」が続くだけだろう。大儲けをする人は一部に出るだろうが。週3日労働の社会のように、全体が楽になる状態を目指すなら、まったく別の努力が必要らしい。
https://twitter.com/wtsurumi/status/1166553719976206336

↑ネズミさん‏ @Nezmi_san 産業革命を「技術革新」としてとらえる傾向があるけれども、「産業の変革と、それに伴う社会構造の変革」とあり、機械化による「生産資本の寡占化」に伴う「市民の奴隷化」とも言える。「変革」と言う言葉は「中身を知られたくない」時に使われるんだろうね。(AI化はその意味で怖いね)
https://twitter.com/Nezmi_san/status/1166463464920895488

↑ネズミさん‏ @Nezmi_san 今まで支配者層は「中世は生産性が低く毎日働かねば生きていけなかった」「我々が労働から解放した」「今は遊んでる無駄食いを削減したい」などと言う。道具である「機械」は労働を解放すると思うが「資本家」は我々を「奴隷から解放」しない。奴隷解放とは丁稚奉公制度破壊による金融と資本独占支配。
https://twitter.com/Nezmi_san/status/1166465376357498880

↑ネズミさん‏ @Nezmi_san 今後のAI化で「道具としてのAI」そのものが怖いのではなくこの道具をもってして「奴隷をもっと奴隷にしよう」とする悪魔的根性が怖いのである。真の意味で民主化されているなら人々にとって「AI」は工作機械の道具と同じである。「支配の道具」ではない。
https://twitter.com/Nezmi_san/status/1166466557205045248

↑ネズミさん‏ @Nezmi_san 今のところ支配層はAIそのものをオープン技術化し、そのデータを含めたビジネス運用を「奴隷化の道具」にしようとしている。クラウドというやつだ。それをサービスとして産業革命で生み出した「機械」に接続する。IoTというやつだ。
https://twitter.com/Nezmi_san/status/1166467697959297024

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>体が楽になる状態を目指すなら、まったく別の努力が必要らしい。

 その努力こそが革命です! 早急に資本家階級を打倒し社会主義革命を成就しよう! 天皇制を粉砕し日本人民共和国を早期に樹立しよう!

>「資本家」は我々を「奴隷から解放」しない

 その通り! 故に奴隷解放の為には社会主義革命しかない!


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↓動画 工場労働者
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