2138.123便事件 京都人脈の闇 PART1

↑画像 京都府京都市中京区 錦市場 欅坂46 from「菅井 友香 公式ブログ 京都PRロケ♪オフショットいっぱい⌄̈⃝ 2016年12月13日」
(1)昨日27日のニュース
「759.日航ジャンボ123便に京都府在住の乗客・乗員がほとんどいなかったのはなぜか? PART2」の続きです。京都の話題ですから、冒頭の写真の撮影現場は京都府です。日航ジャンボ123便に京都府在住の乗客・乗員がほとんどいなかった衝撃の事実は、123便事件に関して京都人脈の闇がある事を暗示しています。
京都と言えば、昨日27日、京アニ放火事件で残る25人の犠牲者の氏名が公表されましたね。「2053.京アニテロの犠牲者・大野萌さんのピースサイン<NHKは京都アニメーション放火事件が起きる事を事前に知っていたのではないか? PART17>」で取り上げた大野萌さんのピースサインがまたテレビ画面に出てきましたね。
昨日27日のニュースをもう1本。26日午前5時ごろ、ロシア国籍のドゥブロヴィナ・アンナさん(29)が富士山の山頂から約200メートル下で落ちてきた石に当たって死亡しました。警察によりますと、その後、現場で状況を確認したところ、「自分が誤って石を落としたかもしれない」と話す人物がいることが分かりました。この人物は死亡した女性よりも上にいたとみられます。警察はすでにこの人物から事情を聴いていますが、故意ではなく、今回の事故との関連は不明のため、現時点で事件性はないと判断しています。
(2)アンナさんと言えば
アンナさんと言えば、梅宮アンナを思い出します。1972年生まれの梅宮アンナは、日本のファッションモデル、タレント、YouTuberです。父親は俳優の梅宮辰夫です。

↑画像 梅宮ファミリー(左から)クラウディアさん、辰夫、アンナ from「ORICON NewS」.
(3)口封じの歴史・高天原山事変364 東映の岡田茂❤123便事件首謀者・瀬島龍三

↑画像 JALの植木義晴会長 出典はこちら
1938年3月11日に生まれた梅宮辰夫は、日本の俳優・タレント・司会者・実業家です。1952年に京都府で生まれた植木義晴は、日本の実業家、操縦士。日本航空株式会社会長です。父は俳優の片岡千恵蔵です。1903年生まれの片岡千恵蔵は時代劇スターでした。本名は植木正義です。

↑画像 東映の時代劇 片岡千恵蔵
1924年生まれの岡田茂は、日本の映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役を務めた。

↑画像 映画界のドン 岡田茂
岡田茂は東映"中興の祖"で、松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人である。広島県賀茂郡西条町(現東広島市西条)出身。賀茂郡出身ですからクロカモの一員である可能性があります。
長男は、映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『実録三億円事件 時効成立』などで知られる元俳優で現東映会長の岡田裕介。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子。声優・ナレーターの政宗一成は従甥。

↑画像 東京裁判で証言台に立った瀬島龍三 ©共同通信社 出典はこちら
岡田茂が就職した東横映画は旧満映系の映画人を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者だった。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。
岡田は1947年、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。翌1948年、24歳で製作主任に昇格した。
以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意した。山本薩夫監督で映画化しようと東宝が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。
そうした中、岡田は絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成した。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒットとなり、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作となった。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され岡田は書記長に就任した。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に岡田は就任した。
1950年の岡田の初プロデュース作『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は、日本初の「反戦映画」といわれています。
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進した。岡田は同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢された。また従業員組合委員長にも推されて就任した。
撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者だった。岡田は大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、岡田の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった。
実は123便事件首謀者側で中曽根康弘以上に重要な人物と言われてる瀬島龍三と岡田茂は仲良しだったのです。と言う事は岡田茂も123便事件首謀者側の重要人物と考えられます。
1911年生まれの瀬島龍三は、日本の陸軍軍人、実業家。大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。妻の清子は松尾伝蔵(陸軍歩兵大佐。二・ニ六事件に際し、義兄である岡田啓介首相の身代わりとなって反乱部隊に殺害された)の長女。1939年より参謀本部作戦課に配属され、東京の大本営に勤務、アジア太平洋戦争ではガダルカナル島撤収作戦など多くの作戦立案に関与した。終戦直前には関東軍参謀として満州(現在の中国東北部)に赴き、作戦主任、中佐で終戦を迎えた。敗戦後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留された。
ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答した。1957年に瀬島は伊藤忠商事に入社した。

↑画像 シベリアから11年ぶりに帰国した瀬島龍三(右端) ©共同通信社 出典はこちら
山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壹岐正は瀬島がモデルといわれる。当の瀬島も、講演などでは、作中で描かれた壹岐のシベリアでの過酷な収容所体験を、自らの体験と同一化して語っていたという。だが、他方で、関東軍参謀としてあたったソ連との停戦交渉の内容など、瀬島が語らなかったことも少なくないとの指摘もある(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』文春文庫)。そもそも山崎豊子は、瀬島が壹岐のモデルという説を否定していた。『不毛地帯』における壹岐のエピソードはあくまで、複数の人物からの取材をもとにした作家の創造の産物だということに留意したい。
関東軍参謀としてあたったソ連との停戦交渉でソ連との関係が形成され、その後の紆余曲折を経て、123便事件でソ連機が123便を攻撃する事態に繋がったのではないかと言われている。
1954年の「ラストボロフ事件」の際、ソビエト連邦代表部二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが亡命先のアメリカにおいて、瀬島を含む11人に「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」と証言した(ほかには朝枝繁春、志位正二、種村佐孝、平沢道則などの名前が挙げられた)。このラストヴォロフの証言はアメリカやイギリスなどでも報道され、日本でもこの事件以降、瀬島をかくれ共産主義者で、ソ連工作員とみなす論が松本清張はじめ、多数ある。日本共産党の志位和夫は志位正二の甥にあたる。
1975年に開村した東映太秦映画村は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートした。
東映太秦映画村がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任した。
1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王と昭和天皇長女東久邇成子の子)と伊藤忠商事社員との結婚式で、瀬島龍三夫妻が媒酌人として執り行われることとなった。それを受けて、スリランカ民主社会主義共和国大統領が来日しその歓迎晩餐会が宮中において催された際、宮殿の別室に於いて同じく招待を受けた瀬島龍三夫妻は昭和天皇に拝謁した。
その席で「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母(東久邇成子)と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も良子も大変喜んでいる。どうか宜しくお願い申し上げたい」という言葉を発し、瀬島夫妻に孫娘の結婚に際し御礼を述べた、と瀬島は自著などで述べている。
國民新聞社の山田惠久によれば、1979年10月のレフチェンコ事件に関する記事によれば、レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコと瀬島が深い仲だと証言した。
1980年の『二百三高地』は、岡田が「そうだなあ。乃木大将を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」という何気ない岡田の一言が『二百三高地』を生む切っ掛けとなった。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田だった。
『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原和夫に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争、大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫した。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという。
瀬島は1981年に鈴木善幸内閣の行政管理庁長官だった中曽根康弘に請われて、第二次臨時行政調査会(第二臨調)の委員に就任。以後、翌82年に発足した中曽根内閣でも各種委員を務め、三公社(電電・専売・国鉄)の民営化など行財政改革で大きな役割を担った。
瀬島と中曽根の結びつきの強さは、既に拙ブログで何回か述べた通りです。この二人は123便事件首謀者側の重要人物といわれている。
1980年前後の岡田を始め、当時の東映をパロディにしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『ミスターどん兵衛』という映画。始まってまもなく、梅宮辰夫扮する撮影所長が、幹部にカツを入れるため、挨拶するシーンの台詞はそのまま岡田が話した台詞。「ええか、ここでヒットした作品を見てみい。『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』、『不良番長』は『地獄の天使』、みんな盗んだもんやないか! ま、一生懸命盗んでも、おまえらの才能ではモトネタと似ても似つかんものになるから問題も起きん」。また会議のシーンで「『ラムの大通り』っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンも同様という。
その1980年に岡田は東京急行電鉄取締役と東急レクリエーション社長に就任し、東急グループと東映の冷え切った関係を修復した。赤坂東急ホテルで開かれた岡田の社長就任を祝う会では、東急グループの総帥・五島昇が人前を憚らず号泣した。岡田は同社の社長を1980年1月から1993年6月まで務め、以降2003年3月まで代表取締役会長、その後も2011年5月に亡くなるまで相談役として30年以上、同社の経営に関与した。

↑画像 62歳の頃の瀬島龍三 ©文藝春秋 出典はこちら

↑画像 岡田茂・東映相談役の自伝出版記念パーティーで森繁久弥さん(左)の祝辞を聞く岡田茂さん 出典はこちら

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