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1999.大逆事件で死刑になった方々のほとんどは冤罪だった!

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↑画像 2019年7月6日放送 日本テレビ系「THE MUSIC DAY 2019 ~ 時代~」 ステージ衣装 AKB48 向井地美音
https://twitter.com/mionnn_48/status/1147511259492782081

(1)低迷するユニークアクセス数

 2019年七夕の4本目です。<1998.創価学会「日本民族に天皇は重大でない」>の続きです。7月に入りユニークアクセス数が低迷しています。工作員の方々のご来訪が激減しているのでしょうか。とは言え来訪者の皆様のページ・ビュー(page view)が多いので、トータルアクセスは一定レベルをkeepしています。

低迷
↑画像 低迷するユニークアクセス数

(2)大逆事件

>創価学会という宗教団体の前身ともいえる「大日本皇道立教会」について調べてみた所、明治44年に大逆事件(天皇暗殺を企てた事件)を起こしていたようです。<from1996の(1)>

 「大日本皇道立教会」は右翼団体ですし、大逆事件には関係がありません。そもそも大逆事件とは、1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称を言います。

 ただ「大逆事件」と言えば一般的には1910年に起きた「幸徳事件」とも呼ばれている事件を指します。

 堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こった。

 この事件を口実に、極悪政府はフレームアップ(政治的でっち上げ)を行った。それによって、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧したのだ。

 第二次世界大戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされていたのは宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名だけであったことが判明した。

 1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下した。不当極まりない事に、再審請求が事実上できないことになったのだ!

 信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。

 特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。

 赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。

(3)大逆事件以後

 社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。

 徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。

 大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆した。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いた。

 また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受けた。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられた。

 また翌1912年6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になった。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていった。

(4)大逆事件で死刑になった人の遺産で大正デモクラシーが成立した

 大石誠之助の甥である西村伊作は大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏は「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘した。

(5)近代最悪の捏造「大逆事件」で冤罪、日本と63年闘った男 『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』(著:鎌田慧) 2016.01.18

http://news.kodansha.co.jp/20160118_b02

 高知(土佐)には〝いごっそう〟という気風があります。〝快男児〟〝頑固で気骨のある男〟それに加えて〝酒豪〟も入った気質をいうそうです。この〝いごっそう〟は〝もっこす〟(肥後・熊本)、〝じょっぱり〟(津軽・青森)とならんで日本3大頑固のひとつに数えられています。鎌田さんがこの本で描いたのはこの〝いごっそう〟を地でいった男、坂本清馬の半生です。

 清馬が巻き込まれたのは近代日本最大の暗黒裁判「大逆事件」でした。大逆事件とは1910年(明治43年)、明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水ら26名が逮捕、起訴された事件です。社会運動家だけでなく森鷗外や石川啄木、永井荷風、徳冨蘆花など多くの文学者を含む日本国中に大きなショックを与えました。事件は1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決が言い渡され、1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童らが、1月25日に管野須賀子の死刑が執行されました。特赦で無期刑となったのが坂本清馬ら12名、2名が有期刑となりました。

 この大逆事件は明治政府が主導したフレームアップ(でっち上げ)事件だったということは今ではよく知られています。それどころか事件後、10余年のちの「一九二八年の九月、小松松吉検事総長が、思想係検事会で講演した秘密速記録」にこのような言葉が残されています。「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」「不逞(ふてい)の共産主義者を尽(ことごと)く検挙しようと云ふことに決定した」。さらには「邪推と云へば邪推の認定」だが「有史以来の大事件であるから、法律を超越して処分しなければならぬ、司法官たる者は此の際区々たる訴訟手続などに拘泥(こうでい)すべきでないと云ふ意見が政府部内にあった」と。法治国家の根幹を司法行政が無視したものだったのです。

 清馬は暗殺計画の密議に加わったどころかまったくこの事件に無関係でした。たしかに幸徳秋水に心酔し、2年ほどは書生にもなっていました。幸徳の身代わりとしてクロポトキンの著作『麺麭(パン)の略取』の出版名義人となったこともありました。けれど大逆事件の1年ほど前に幸徳と衝突し、激昂のあまり飛び出していたのです。「貴様(幸徳)が革命をやるかおれがやるか、競争するぞ。こんな所におれはいられない」という激しい言葉を残して。この清馬の言動には、直情径行、いごっそうの面目躍如たるところがあります。

 九州などを放浪後、東京に戻った清馬は印刷工場に職を得ます。そして「秋水逮捕から二ヵ月近くたって」あろうことか「浮浪罪」という名目で拘引され、そのまま大逆事件の犯人として起訴されました。別件逮捕の上での起訴、冤罪以外のなにものでもありません。

 「無期懲役が決まった瞬間から、いつか真実を明らかにしようという決意をかためた」清馬は獄中でも「癇(かん)が強く、厳格さを絵に描いたような、誇り高き清馬」として服役。言うべきことは言う、約束したことは何であり守り、誰であり守らせる、懲罰房に放りこまれても屈することなく、看守等におもねることなどみじんもない獄中生活を送ります。獄吏の理不尽さに怒り心頭に発して、司法大臣へ「こんな国に生きている価値を認めるわけにはいかない。私を殺すようにしたのは、あなただから、私を死刑に復(もど)せ」という上願書を出すほどでした。

 無実を知りながらもそれを晴らすため、また秋水の無実を明らかにするためにも生き抜こうとした清馬の日々の記述は読む者の心に滲みてくるものがあります。「罪のないものをあると自覚することはできません。もしも、そのような阿(おもね)り諂(へつら)心がありましたなら、私は疾(と)うに賞票(善行表状)を与えられているはずです。私は今も昔も一個の信念を抱いて生活しているのです」と。

 秋田監獄への収監、その後、故郷の高知刑務所へ移管され仮出獄になったのは逮捕から24年後の1935年、すでに日本は戦争への道をひた走っていました。「結局、無期懲役一二人のうち、清馬が最後まで獄中に残されていた」のです。獄中死したのは5人、うちふたりは自殺でした。

 出獄後、清馬の冤罪は晴らすことができたのでしょうか。敗戦後の昭和22年に司法大臣より1通の文書が届きます。そこには「無期懲役の刑の言渡の効力を失はしめられる」というものでした。無罪の通知ではありません。「判決の効力が無くなった」というものでしかありません。政府は大逆事件へ曖昧な姿勢をとったのです。清馬の心にあったものは「長い冬は終わったのだ。だが、本当の春はまだやってこない。(略)私は未だ自分の無実のあかしを世界に立てていないのだから……」というものでした。

 清馬の次の闘いが始まりました。再審請求への活動です。ここでも直情径行ぶりを象徴しているような行動がありました。天皇への直談判、マッカーサー元帥への働きかけなど、直接行動そのものでした。けれど再審請求は認められませんでした。「予審調書はデタラメだった、として再審を請求したのだが、裁判長はそのデタラメに依拠して請求を棄却した」のです。鎌田さんが記したように「責任逃れである」としか言いようがありません。

 今年(2016年)は幸徳秋水たちの死刑執行、清馬の投獄から105年になります。89年の生涯のうち63年を冤罪の名の下に生きた男。「国権維持のためなら、人権など歯牙にもかけない」という暗黒裁判、国家による冤罪事件に「頑固な抵抗」を続けた清馬の一生は私たちにとても多くのことを教えてくれます。信念、思想、敬愛とはどのようなものをいうのかを含めて。そしていまだに冤罪が生まれ、政治のフレームアップが起きる時代に私たちは生きていることを改めて痛感させるものでした。

(6)大逆事件で死刑になった方々のほとんどは冤罪だった!

 大逆事件で死刑になった方々のほとんどは冤罪でした。大逆事件の被告としてでっち上げられた幸徳秋水らは、国家権力によって惨殺されたのです! 兇悪極まりない国家殺人です!

 こうした冤罪による死刑があるのですから、死刑制度は即刻廃止すべきです! 現在、先進国で死刑を執行しているのは日本とアメリカくらいです。

 ネット上で稀代の悪党・安倍晋三をチャウシェスクの様に処刑すべきだという意見が時々出ています。私は死刑廃止論者ですから、死ぬ迄呻吟する程の強制労働を課せと主張しているのです。


1375.チャウシェスクと安倍晋三、どちらがより悪党か?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-1715.html

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↑画像 チャウシェスク晋三 出典 http://my.shadowcity.jp/2016/07/-oredayo8-44-16-1720.html
<「1499.レイシスト小池百合子を都庁から即刻追放しよう!」から転載>

チャウシェスク晋三夫妻処刑!
↑画像 チャウシェスク晋三夫妻処刑! 出典 http://my.shadowcity.jp/2018/03/post-12889.html
<{1063.報道ステーションで「290カ所の改ざん」と表現 NEWS23で「約300カ所の改ざん」と表現}から転載>


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