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1842.東の千葉 西の愛知 (習志野高校物語 PART3)

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↑画像 2019年公共交通機関利用促進キャンペーン・鉄道16 〒276-0049 千葉県八千代市緑が丘1-1104-3 工事費の3000億円の返済にあてるため運賃が高い東葉高速鉄道の八千代緑が丘駅改札口 欅坂46 青空とMARRY「割れたスマホ」PV撮影場所 欅坂46 菅井友香
http://blog.livedoor.jp/fumichen2/archives/49776158.html

(1)東の千葉 西の愛知

 「1841.夏の甲子園 史上初めて過去の優勝投手が優勝監督に (習志野高校物語 PART2)」の続きです。1840に書いた通り、2019年の春の選抜高校野球の決勝戦は、千葉県の習志野高校と愛知県の東邦高校の試合でした。千葉県と愛知県が出てくると、どうしても「東の千葉、西の愛知」という言葉を思い出します。

 1980年代、全国的に校内暴力が荒れ狂う中、多くの学校で管理教育が強化された。特に千葉県と愛知県で異常な管理教育が吹き荒れた。それを象徴した言葉が「東の千葉、西の愛知」です。千葉では特に小中学校が、愛知では高校がひどかった。

 私が千葉県民だった頃、それは習志野高校の教諭だった時代、朝日新聞の県内版に時々県内の管理教育を批判する記事が掲載されていた。

1565.ブラック校則はなぜはびこるのか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-1927.html

836.1980年代、マスコミが不良をもてはやしたのはなぜか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-1101.html

202.日本で体罰が横行するようになったのはなぜか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-270.html

(2)軍事教練まがいの訓練が児童・生徒に強要された
 
 当時、愛知県立東郷高校を頂点に、無意味な校則と教師による生徒に対する悪逆非道な暴力行為が吹き荒れた! そうした生徒にとっては地獄この上ない東郷高校を扱った書籍が愛知県立図書館にはないという!

 愛知県立東郷高校などでは、敗戦前の軍事教練まがいの訓練が生徒に強要された。千葉県では冒頭の写真の撮影現場である八千代市や松戸市などの小中学校でやはり敗戦前の軍事教練まがいの訓練が児童・生徒に強要された。授業の合間にやらされるので「業間体育」という。私が習志野高校の教諭になった1983年には、愛知県立東郷高校の軍事教練まがいの訓練の強制を苦にして生徒が自殺した。

 狂った教師<狂師>どもが殺したとも言える。とは言え教師<狂師>どもも権力に管理されていて管理教育を拒否できなかったのかもしれない。組合で団結して軍国主義的な管理教育を粉砕すれば良いのだが、組合がないかあっても極めて組織率が低かったのだろう。

(3)愛知県立東郷高等学校

 愛知県立東郷高等学校は、愛知県愛知郡東郷町にある公立の高等学校。愛知県の管理教育実施校の代名詞とされており、天白高等学校、豊明高等学校とともに「3T」と称されていた。

 愛知県立東郷高等学校では、マル東訓練(時間割表に「○に東」の記号で表されていた為この名がある)という軍事教練まがいの集団行動訓練が行われ、スパルタ式の代表校と愛知県以外の教育界では批判を浴びることがある。

 管理教育の実験校として東郷高校が注目された背景にはいくつか要因が指摘できる。県立東郷高校のエピソードとして、まず学校自体の設立の背景がある。

 東郷高校設立は、1960年代後半からの70年安保紛争時の全共闘運動が愛知県下の高校まで拡大し、これに手を焼いた愛知県教育委員会を中心とした保守的な教育者たちが糾合、「健全な教育の確立」を目指し「生徒を管理する高校」を急遽設立することを決定した。その決定があまりに急だったために、東郷高校設立時に東郷町に校舎はなく、県立明和高校の休眠校舎を借用して開校したことからも伺える。また週末は東郷町の校舎建設予定地に生徒を「体育授業」と称して建設現場での作業に従事させていたことからも、東郷高校の設立がいかに政治的=思想的であったかを物語っている。

 またあまりに東郷高校の設立が急であったために、愛知県教育委員会は県下の中学校を廻り、進学校への進級をあきらめつつあった生徒をかき集めた。このため、尾張・三河地域の学区制を東郷高校だけ特別に撤廃する措置も強行した

 東郷高校での「管理教育」が県下で大きく問題化しなかった背景には、地域社会の保守性が指摘できる。まず高校建設地を、名古屋市郊外の東郷町に校舎の建設を決定したことからも伺える(この町名自体が東郷平八郎に由来するという)。当時典型的な農村地域であった東郷町は保守的な地域であり、かつ名古屋市在住者も自宅から通学できるぎりぎり地域であった。当時存在した名古屋市の学校群制度(旧制の有名進学校への進学者偏重を平準化するために行われた一般校との共通受験制度)による学校群高校への進学出来ず「もう大学に進学できないのではないか?」という生徒及び保護者の心理を、東郷高校の「管理教育」によって救済する、という考え方があった。

 事実、東郷高校は設立後数年で急速に進学率が高まり、「東郷に行くと遊ばずに大学に進学できる」という噂話が広まってゆく。元来保守的で見栄っ張りな地域性も手伝い、進学校としての地位を拡大して行き、実際全国津々浦々の国立大学へ進学させること、また多数の大学を受験させて進学数を増やすことで、地域や保護者からある一定の評価を得るようになった(その影で入学してしまった生徒の苦労は内在化してゆくのだが)。

 東郷高校での「管理教育」が生徒の「不良化」「反抗化」を阻止出来ると評価した愛知県教育委員会はその後、高度成長終了後も止まない愛知県への人口流入を背景に、県下に続々東郷方式の「管理教育高校」を設立した。その手始めとして、東郷町と隣接する地域にドミナント的に東郷方式の高校を設立し、東郷高校出身を「幹部教員」として送り込んだ(豊明市に県立豊明高校、名古屋市天白区に県立天白高校、日進市=当時日進町に県立日進高校など)。

 人口増加が進む愛知県下では、愛知県教育委員会が新設の高校に、「高校生を管理する旨み」を覚えた教師たちを「幹部教員」として派遣した結果、愛知県下の進学校の多くが東郷方式で設立された。赴任当初「管理教育」に疑問を持った教員も少なからずいたようだが、東郷方式の厳しい「管理教育」高校経験者というだけで早期の出世が約束されることで、疑問を忘れていった。

 東郷方式の厳しい「管理教育」は生活態度、進学偏重の二本柱で推進された。「生活態度」では、極端な短髪(男子の髪は耳にかからない、女子は肩にかからない)、保育園児のようなスモック型ブレザー、下着や靴下、靴までも白指定する徹底を敷いた。事実下着は色、柄、形までチェックされることもあった。また「進学」についても、当時はまだ稀であった3年の1年をほぼ大学の入試問題の回答など進学教育に充て、受験問題中心の教育を施した。3年生の夏休みはほぼ毎日登校し、そのうちの数日は「勉強合宿」と称して教室の寝泊りしながらの受験勉強を実施した。

 しかしながら、東郷高校の「厳しい指導=高進学率」という神話はほぼ1980年代半ばで崩壊しつつあった。それまで進学教育に熱心でなかった周辺高校の方針転換による進学率の上昇により、1980年代後半には既に「管理」のみが顕在化した。1980年代半ば、東郷方式の異常性を訴える活動としては、『禁断の教育』などの書物などが発行されたり、通学途中で生徒に向けて反対のビラが配布されるなどの活動もあった。

 1980年代後半には、3年間で約一割の生徒が中退する状態となり、その理由も「管理教育になじめない」という理由が大半で、半ば学校側の強制も存在した。この3年間で約1割が中退する状態は卒業生のほとんどが進学する高校としては当時珍しいことだった。また、1983年には訓練の強制を苦にして生徒が自殺している。

(4)千葉日報オンライン 選手と監督で全国制覇 第49回(67年)優勝投手、57回(75年)優勝監督 習志野・石井好博 【千葉高校野球ドキュメント100】(1) 2018年2月19日 05:00 UP

https://www.chibanippo.co.jp/news/sports/477180

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↑画像 習志野の甲子園県勢初優勝を報じる1967年8月21日の千葉日報本紙

 今夏、高校野球選手権は100回の記念大会を迎える。幾多のドラマを生み出してきた球児たちの熱戦は、日本の文化としてこれからも続いていく。連載「千葉高校野球ドキュメント100」では、全国屈指の激戦区・千葉大会に出場、または見つめてきた人々を訪ね、重ねてきた歴史を振り返る。第1回は、49回大会(1967年)でエースとして千葉県に初の「深紅の大優勝旗」をもたらし、57回大会(75年)には監督として全国制覇を果たした習志野の石井好博。(敬称略)

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↑画像 甲子園で胴上げされる石井監督を報じる1975年8月25日の千葉日報本紙

 私が2年の夏に負けた後、関西遠征に行って初めて甲子園を見に行った。あの時の感激ってすごかったね。テレビで見るのとは全然違うわけですよ。こういう所で野球をやりたいって思いになった。

 最後の夏は甲子園でも優勝できると思っていなかった。当時予選で茨城と東関東大会があり、うちはなかなか勝てなくて。けど、千葉で開催できることになり、夢見ていた甲子園に行きたいと、木内(幸男監督)さんの取手二と、竜ケ崎一を連続で完封できた。プロに行くような力もなかったから、1球でアウトを一つ取れる投球を心掛けていた。

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↑画像 当時の思い出を笑顔で振り返る石井好博=2018年2月14日、千葉県内

◆苦しんだ中京戦

 甲子園では開会式後の堀越(東京)との開幕戦に勝って、気持ちが乗っていった。準決勝は中京(愛知)。実は前の年に甲子園で見た試合が中京と桐生(群馬)の準々決勝だった。中京は洗練されているし、一番の印象は相手につけ込む走塁。こういうチームにならないと甲子園に行けないという目安になった。

 池田(和雄)がホームランを打って先制したが、ピンチの連続。九回に2死から反撃され3-2になって血の気が引いた。市原(弘道監督)先生も越川(道弘部長)先生も腰がすくんだって。けど、逃げちゃ駄目だと。技量に差はあるが同じ18歳の高校生。先生に気持ちだけは負けるなと言われていた。サードゴロで終わり、逃げなきゃ良いゲームができるんだと感じた。

 準決勝で苦しんだ分、決勝は気持ちが楽だった。最後はストレートで空振り三振。開幕戦最初の1球と最後の1球を私が投げることができた。優勝の喜びもあったが、脇見もせずにやってきた高校野球が終わってしまうのだなって感じた。この瞬間に、もう一回高校野球に携われれば良いなと思った。

◆監督は難しい

 早稲田大学3、4年の時に実は就職先が決まっていた。けど、越川先生に習志野に来てくれと言われちゃって。卒論を提出しないで大学5年目を迎えることにし、企業に謝りに行った。5年目の大学に通いながら習志野のベンチに入り、夏の甲子園(54回大会・72年)に行けた。掛布(雅之・元阪神)が2年生の時だった。

 ボールを自分たちでいじれる選手の方が簡単で、監督は難しい。必死だった時に小川(淳司・ヤクルト監督)が入学した。1年の6月にピッチャーをやらせたが、球は速いがノーコンで仕方ない。けど、フォアボール10個与えても良いから投げさせた。

 そしたら右腕を疲労骨折してしまった。普通なら練習を休むが、あいつは腕をつるした状態でも、毎日ランニングやタイヤ引きをやっていた。努力と気持ちの強さがすごく、何とかしてやりたいと思った。あれは小川の原点で、今でも覚えているはず。

◆“邪犠飛”で反撃

 74年夏は銚子商業に負けたが、銚子商は甲子園で優勝。自分たちのやってきたことは間違いじゃなかった。だけど75年のセンバツは豊見城(沖縄)にやられ、やっぱり打てなきゃ勝てないと。とにかく走って、バットを振った。発電機を買ってティーバッティングとベースランニングと素振り。毎日午前0時すぎまで練習した

 夏の県準決勝は銚子商業と。篠塚(和典)がジャイアンツに入って会った時に「野球人生で一番悔しかったのが、あの時勝負してくれなかったこと」と言われたよ。歩かせ続け、最後の打席は小川が一騎打ちして三振取ったんだけどね。

 甲子園は、春惨めな負け方をしたから汚名だけはそそぎたかった。準決勝の広島商業は雨で1時間半ぐらい中断。ベンチの中で小川を呼び、今までの練習の思い出とかを話し気持ちをつないだ。頑張って3試合連続で完封してくれた。練習してきたけん制で刺せたのも大きかったかな。

 決勝は新居浜商業(愛媛)。小川も下山田(清)も肩が痛いって言い出して。小川にはここで投げないこともできるが、高校野球は一生悔やむからって伝えた。雨で順延になり硬さがあり、今までなかったエラーでの失点。きょうは駄目かと何度も思った。五回に一塁方向のファウルフライでタッチアップし、小林(重信)が生還。あれで相手が崩れるのがよく分かり、逆転できた。野球のあらゆるケースを想定し、練習していた成果が出た。

 監督は周りが考えている以上にいろんなことを考えてしまう。点差とかイニングを考え何球目にサインを出すか、とかね。監督は次の年も、また次の年のことも考えなきゃいけない。だから監督として優勝できた方がうれしかったかな

 「水鳥のごとく、稲穂のように」。見えないところでもがき、うまくなってくれば頭を下げ低い姿勢を、が信条だった。どちらの優勝も自分の力でできたわけではない。日本一になったのは私ではなく、チームがなった。その中の一員だったと常に思っている。

◆情熱ずっと続いて

 私はいろんな恩師の教えをミックスして野球をつくったので、これがオレの野球だなんて偉そうなこと言えることは一つも無い。けどね、練習しなきゃ勝てないってことは一番感じたかな。

 あと野球ってのは筋書きのないドラマではない。監督がドラマの筋書きをつくってやるんだよ。それぞれ異なる選手の性格を考えて、その子にあった指導を考えてあげるとかね。正直者がバカを見るっていう世界にはしたくないじゃないですか。真面目に練習してきた連中が最後に笑えるチームにするには、監督も努力しないといけない。

 昭和40年に高校野球の世界に入って、半世紀が過ぎ100回大会ですか。現役も監督時代のこともすべて忘れられないし、今でも新鮮によみがえるんですよ。環境や野球の考え方も変わっていくけど、大人も子供も、高校野球に対する情熱はずっと続いてほしいね。

◆いしい・よしひろ 1949年、4月3日生まれ。68歳。千倉町(現南房総市)出身。「最後の大会で銚子三中学に敗れリベンジしたくて」習志野高へ進む。67年第49回大会でエースとして県勢初の全国優勝に貢献。75年第57回大会は監督として母校を率い、県勢3度目の全国制覇に導いた。当時26歳だった。

(5)wikiの信用度

 wikiを完全に信用するのは考え物かも。「1840.元号制度を永続化させたい支配層にとって望ましい結果となった2019年の春の選抜高校野球の決勝戦(習志野高校物語 PART1)」の「(5)石井好博」で引用したwiki「石井好博」によれば、石井好博氏は1950年生まれとされている。その記述を信用して引用したが、その記述は間違いの様だ。(4)の千葉日報オンラインの記事は、直接本人にインタビューした上で1949年生まれと書いてあるのだから、こちらが正しいと考えられる。 


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