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1841.夏の甲子園 史上初めて過去の優勝投手が優勝監督に (習志野高校物語 PART2)

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↑画像 2019年公共交通機関利用促進キャンペーン・鉄道15 〒275-0026 千葉県習志野市谷津5-4-5 谷津駅 aiko「あたしの向こう」PV撮影場所
http://blog.livedoor.jp/fumichen2/archives/42114975.html 

(1)掛布雅之

 2019年4月7日の3本目です。{1840.元号制度を永続化させたい支配層にとって望ましい結果となった2019年の春の選抜高校野球の決勝戦(習志野高校物語 PART1)}の続きです。2019年4月7日午前9時現在、検索エンジンに「掛布雅之」と入れると、付属語のTOPに「高校」が、2番目に「習志野」が出てくる。

若き日の掛布雅之2
↑画像 掛布雅之氏
https://blogs.yahoo.co.jp/hoelderlin_on_sirius/36018964.html

 1955年5月9日、掛布雅之新潟県三条市に生まれた。三条市に隣接している五泉市に住んでいた私の母は、掛布雅之が生まれたその年、私の父と結婚した。掛布雅之は1歳の頃から父親の郷里である千葉市で育った。石井好博は1968年4月、早稲田大学に入学し、体育会硬式野球部に入部したが肩を壊してしまった。その後石井好博は高校野球の指導者を目指す様になった。大学同期に丸山朗投手(大昭和製紙)らがいる。

 掛布雅之は1971年4月習志野高校に入学した。wikiによれば石井好博は1972年3月、早稲田大学卒業した。1972年4月、習志野高校に赴任し、母校の野球部監督に就任した。2年生になった掛布雅之は、石井好博監督のもと、四番打者、遊撃手として1972年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会決勝で優勝候補筆頭の銚子商と対戦した。根本隆投手から先制のきっかけとなる安打を放ち、2-0で快勝した。しかし甲子園では1回戦で東洋大姫路高に敗退(東洋大姫路高にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)した。

 掛布雅之は3年生時の1973年夏は県予選準々決勝で、エース古屋英夫を擁する木更津中央に、延長11回の熱戦の末1-2xでサヨナラ負けを喫し、甲子園には届かなかった。ちなみに同期で一緒にクリーンアップを打っていたのは、巨人・阿部慎之助の父である。当時「掛布さんは竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていた」と、2学年下の小川淳司(1975年夏優勝投手)は述べている。

(2)小川淳司

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↑画像 小川淳司氏(1986年当時)

 2019年4月7日午前9時47分現在、検索エンジンに「小川淳司」と入れると、付属語の2番目に「習志野」が出てくる。福田元昭が生まれてちょうど一ヶ月後の1957年8月30日、小川淳司は千葉県習志野市に生まれた。中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま小川淳司は1973年4月、地元の習志野高校に進学した。

 小川淳司は体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。1年生当時、2学年上に掛布雅之がおり、当時は話もできなかったが意識する存在だったと述べている。肋間神経痛でも走り込みを休めなかったというほどの猛練習を積み、エースとなった。1974年春、習志野高校を卒業した掛布雅之は阪神タイガースに入団した。同じ1974年小川淳司は、2年生時の夏の甲子園県予選で、4回戦で銚子商土屋正勝と投げ合い、0対2で惜敗した。秋季関東大会ではベスト4に入り、翌1975年春の選抜大会に出場したが、赤嶺賢勇を擁する豊見城高に一回戦で敗れた。その1975年に習志野高校の校舎は、習志野市内の津田沼から東習志野に移転した。

(3)夏の甲子園 史上初めて過去の優勝投手が優勝監督に

 小川淳司は1975年夏の甲子園県予選では、準決勝で銚子商(前年夏の優勝メンバーでは篠塚利夫が残っていた)と再び対戦し、自ら2ラン本塁打を放って勝利した。続く決勝では君津高を破って夏の選手権出場を決めた。選手権では3試合連続完封などの活躍を見せ、準決勝で肩を痛めながらも決勝で新居浜商に9回裏サヨナラ勝ち、8年ぶりの優勝を果たした。同年秋の三重国体では、決勝で新居浜商にまたも9回裏逆転サヨナラ勝ち、優勝を飾った。

 この1975年夏の甲子園優勝で、石井好博は史上初めて甲子園の優勝投手がその後に母校を率いて甲子園に出場し優勝監督になるという偉業を達成した。現在に至る迄この偉業を達成した人物は石井好博しかいない。後にこの偉業を讃え、『週刊少年キング』が漫画「石井好博物語」を掲載した。後に『週刊少年キング』は掛布雅之をモデルとした漫画「若トラ 掛布雅之物語」も掲載した。

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↑画像 石井好博氏

(4)アサ芸プラス 「夏の甲子園第57回大会」史上初めて過去の優勝投手が優勝監督に Posted on 2018年8月10日 05:58 転載記事

https://www.asagei.com/excerpt/109987

 甲子園の優勝投手がその後に母校を率いて甲子園に出場し、優勝監督になる。これは、これまでの夏の選手権史上たった一例しかない偉業である。そんな偉業を達成した人物とは、千葉の古豪・習志野で活躍した石井好博だ。

 1967年第49回大会にエース・石井を擁して夏2度目の出場を果たした習志野は、大会前の評価はさほど高くなかった。しかし、開会式直後の第1試合で堀越(東京)を3‐1で下し、勢いに乗った。仙台商(宮城)戦は6‐3、富山商戦では打線が20安打を放ち、16‐2と圧倒。何とベスト4にまで進出したのだ。

 準決勝は名門・中京商(現・中京大中京=愛知)が相手。習志野は4回表に3番・池田和雄(慶大ー日本石油)の右越えのソロで先制すると、6回表には2死二、三塁から石井みずからが中前2点適時打を放ち、3‐0と試合を優位に進める。実はこの時、習志野はまだ創部10年目で歴史も浅かった。しかし、そんな新興校が、守っても甲子園常連の中京商を翻弄することとなる。牽制プレーである。それは一塁にいる時よりも、中京商の走者が得点圏の二塁に進んだ時に、より威力を発揮した。

 サインプレーで結ばれたベンチ、バッテリー間、内野手の呼吸が絶妙で、試合巧者であるはずの古豪・中京商はこの習志野の牽制網に引っかかって4度もチャンスを潰してしまったのだ。結果、石井は9回裏に中京商の反撃にあい、2点を返されたものの後続を断ち、3‐2で勝利した。準決勝で甲子園の名門校を倒した習志野は、続く決勝戦も強豪・広陵(広島)が相手だったが、これを7‐1で一蹴。夏の選手権出場2回目にして、みごと全国の頂点に立ったのである。

 この大会で優勝投手となった石井は翌年、早稲田大学へと進学。卒業即、習志野の監督に就任した。その3年目の75年第57回夏の選手権でふたたび全国制覇を成し遂げるのだ。

 この年のチームの投打の中心がエースで主軸を打つ小川淳司。東京ヤクルトスワローズの現監督である。この小川が初戦の旭川竜谷(北北海道)戦こそ5失点し、8‐5の辛勝だったが、その後の3試合をすべて完封と怪腕ぶりを発揮する。足利学園(現・白鴎大足利=栃木)を2‐0、磐城(福島)を16‐0、広島商を4‐0と撃破し、夏2度目の決勝戦進出を果たしたのだ。特に磐城戦では計23安打、しかも全員が2安打以上を放つ史上初の“全員ダブル安打”を記録。小川は4安打4打点の大暴れだった。

 迎えた決勝戦の新居浜商(愛媛)戦は、準決勝の広島商戦で肩に違和感を覚えていた小川が10安打を浴び、4失点。8回表も1死満塁のピンチを招いたが、これを何とかしのいだ。そして4‐4の同点で9回裏習志野の攻撃へ。すると2死ながら一、三塁のチャンスをつかむと6番の下山田清が右前安打で5‐4のサヨナラ勝ち。劇的な幕切れで習志野は8年ぶり2度目のVを、石井はエースとしても監督としても母校を優勝へと導くこととなったのである。なお、この年の習志野は5試合通算で67安打を放ち、チーム打率も当時の大会新記録となる3割9分をマークしていることを付記しておきたい。

(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=

(5)wikiの「石井好博」の記述は一部間違っているかも

 wikiの「石井好博」の記述は一部間違っているかもしれません。「1972年3月、早稲田大学卒業。」の部分が。2018年2月19日 05:00 にUPされた千葉日報オンラインによれば、「早稲田大学3、4年の時に実は就職先が決まっていた。けど、越川先生に習志野に来てくれと言われちゃって。卒論を提出しないで大学5年目を迎えることにし、企業に謝りに行った。5年目の大学に通いながら習志野のベンチに入り、夏の甲子園(54回大会・72年)に行けた。掛布(雅之・元阪神)が2年生の時だった。」という。

 千葉日報オンラインに出てくる越川先生は、「1094.埼玉県内の地下施設二カ所の異変の続報」の「(4)小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」に出てくる越川道弘先生の事です。


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