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1806.1981年、私の友人は北方領土の日の政府広報に出演しました。 PART2 <全国鉄道乗りつぶし2 JR釧網本線>

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↑画像 2019年公共交通機関利用促進キャンペーン・鉄道8 北海道札幌市北区北6条西4丁目 北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線 札幌駅 一昨日2月15日に二十歳になった元モーニング娘。の12期メンバーだった尾形春水(おがたはるな) はーちん
https://twitter.com/MorningMusumeMg/status/1005634720867147777

(1)函館本線

 「1805.1981年、私の友人は北方領土の日の政府広報に出演しました。 PART1」の続きです。1805完成後、一連の越後湯沢駅シリーズも鉄道だった事に気付きましたので、1805の冒頭の写真は、「2019年公共交通機関利用促進キャンペーン・鉄道7」となりました。思えば昨年2018年の2月は長濱ねるの雪が降る長崎駅前のシリーズが延々続きましたね。

 1805の冒頭の写真の撮影現場は、JR北海道の函館本線の函館駅前でした。筆者は2010年秋に修学旅行の引率でこの駅に初めて降りました。函館市自体は1986年夏に訪問していますので、2010年が2回目の函館でした。

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↑画像 函館本線 路線図 出典はwiki

 函館本線は北海道函館市の函館駅から長万部駅、小樽駅、札幌駅を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ423.1 kmの幹線です。今回は冒頭の写真の撮影現場はその札幌駅です。どう見ても冬の写真ではありませんね。ミスマッチで申し訳ありません。

(2)全国鉄道乗りつぶし2(1はこちら) JR釧網本線

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↑画像 釧網本線 路線図 出典はwiki

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↑画像 釧網本線 塘路駅付近を走るキハ54形気動車 (サルルン展望台から撮影、2009年9月23日)

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↑画像 釧網本線 浜小清水駅に停車中のキハ54形気動車 (フレトイ展望台から撮影)

 北方領土がテーマですから、「599.イタリアに精神病院がないのはなぜか?」の冒頭の写真の撮影現場であるJR北海道釧網本線北浜駅<日本で唯一ホームから流氷が見える駅・日本で一番オホーツク海に近い駅・ホームから海まで50m ほどしかない>あたりの方がマッチしているのですが。JR北海道釧網本線は、私、1989年に乗車しました。

 釧網本線(せんもうほんせん)は、北海道網走市の網走駅と釧路市の東釧路駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の地方交通線です。釧路方の起終点は東釧路駅ですが、全列車が根室本線に直通し釧路駅に発着しています。存廃問題が浮上しています。皆様、ぜひ釧網本線に乗車しましょう。

 「1045.大杉漣さんは人喰い組織の殺し屋に毒殺されたのか?」に書いた、今はない標津線天北線名寄本線池北線などに乗車した際に、釧網本線も乗車しました。1989年4月の事でした。

 前にも述べた通り日本人の多くが冷酷極まりない自公政権のもとでどんどん貧乏になり国内旅行もなかなかできない状況になっている一方、かなり前にGDPランキングで日本を追い越し2位になった中国の人々はどんどん豊かになり、日本国内に観光客として来訪している。前述の釧網本線では、2019年1月31日についに「日本人お断り」の観光列車が走ってしまった

(3)「日本人お断り」の観光列車 最終更新:2/15(金) 16:56 47NEWS

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190215-00000001-yonnana-soci

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↑画像 JR北海道の車両「クリスタルエクスプレス」(上)と、道中で見えたキタキツネ=2018年1月28日、北海道川上郡弟子屈町

 「日本人お断り」の観光列車が1月31日、北の大地を駆けた。使用が予定された車両は、バブル期にスキーリゾートを訪れる旅行者を運ぶために製造されたJR北海道の4両編成のディーゼル車両「クリスタルエクスプレス トマム&サホロ」キハ183系だ。

 クリスタルエクスプレスの先頭部は運転席を2階に設けて客室に大きな窓を備え、2階建ての中間車両を連結している。まるでJR九州の観光列車「あそぼーい!」の先頭車両と、近畿日本鉄道の「しまかぜ」の中間車両の“いいところ取り”をしたような豪華な仕様だが、経営不振に陥ったJR北海道が合理化へまい進する中で力走する姿を眺められる機会はまれだ。

 “乗車拒否”に遭った形の日本人の鉄道愛好家からは不満の声が渦巻きそうだが、そこには「大人の事情」がある。

 JR北海道が単独では維持困難としている10路線13区間に含まれた釧網線〈釧路(釧路市)―網走(網走市)〉について、北海道は釧路湿原や阿寒湖、摩周湖、知床半島などを訪れる観光客の利用を促して存続させる道を探っている。そこで助成金を出し、拡大する外国人旅行者の潜在需要を探るために、クリスタルエクスプレスで釧網線を網走から釧路へ南下させることを計画したのだ。1人当たりの参加料金は、ホテルの1室2人利用で2食付き3千円と激安だ。

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↑画像 晴れ渡って一望できた北海道弟子屈町の摩周湖(上)と、仕切り扉に「関係者立入禁止」と記されたクリスタルエクスプレス車内の先頭部分=2018年1月28日

 実は予定が変更になって当日は同じキハ183系の団体用車両「ノースレインボーエクスプレス」で運用されたのだが、私はクリスタルエクスプレスが走った場合の光景を鮮明に思い浮かべることができる。実は1年前の昨年1月に同じ釧網線の網走から釧路までをクリスタルエクスプレスで移動するツアーがあり、その際は日本人にも門戸が開放されていたため参加したのだ。そこでクリスタルエクスプレスに乗ったことがない方に、乗車体験をお伝えしたい。

 私の座席は2階建て中間車両の2階で、2席同士が向き合ったボックス席だ。木製のテーブルを配置し、大きな窓からの景色を楽しみながら飲食ができる。網走を出発して約30分後、風雪に耐えてきた木造駅舎が残る北浜(網走市)に滑り込んだ。

 この日は残念ながら流氷が漂着していなかったが、その代わりとばかりに走りだした列車内の“漂流者”となって探索した。車両の1階部分に足を運ぶと、廊下に沿って4人用の個室が三つ並んでいる。登場当時は、「OK!バブリー!!」と踊るお笑い芸人の平野ノラさんのように浮かれた会話で盛り上がっていたのだろうか?

 続いてもう1両の中間車両に入ると、側面の窓の上部に左右1列ずつ連なった窓から太陽光が降り注いでいた。座席は、通常の特急用車両のように背もたれが倒れるリクライニングシートだった。

 いよいよ先頭車両にたどり着き、リクライニングシートの間を抜けて大眺望が待ち受けているはずの最前部へ向かった。ところが、想定外の光景が待ち受けていた。「あそぼーい!」ならば子供らがかぶりつく展望席の部分は何もない“空白地帯”となっており、「関係者以外立入禁止」と表示した手前の仕切り扉が遮断していた。

 登場時は前面展望を楽しめる座席が並んでいたが、運転席を高い位置に置いた別の車両で2010年に起きた踏切事故の発生後に、「再発防止策」という名のもとに先頭部の座席が撤去され、立ち入り禁止になったという。だが、これでは宝の持ち腐れだ。

 クリスタルエクスプレスが走った釧網線を観光路線として存続させる方向性に対し、沿線自治体からは「沿線には良い観光資源が多いので、何とか釧網線を残したい。欧米系を含めた外国人旅行者が結構乗っており、(路線バスなどの)二次交通を整備すればもっと乗ってもらえる」(弟子屈町の徳永哲雄町長)、「乗るだけではなく、乗って楽しい鉄路を目指すことが訪日客の拡大につながる」(網走市の水谷洋一市長)と期待感が広がっている。

 確かに沿線は素晴らしい観光スポットの宝庫だ。途中の一部行程で利用した貸し切りバスの道中ではキタキツネの姿を見られ、晴れ渡った空の下で摩周湖を一望できて「こんな晴れた日は珍しく、お客さんたちはラッキーです!」とバスガイドさんが声を弾ませた。

 クリスタルエクスプレスで釧路湿原にある茅沼(標茶町)に停車した際は、タンチョウの姿も見られた。非日常的な観光列車の空間を味わい、素晴らしい自然美が目の保養となり、釧路までの鉄道旅を満喫した。

 しかし、1階の先頭部分という“特等席”をデッドスペースにし、「関係者以外立入禁止」と乗客をあしらっているクリスタルエクスプレスの現状は画竜点睛を欠く。目にした摩周湖の絶景とは対照的に、歌手布施明さんの曲「霧の摩周湖」の歌詞のように旅情は霧で覆われたままだった…。

☆大塚 圭一郎(おおつか・けいいちろう)共同通信社福岡支社編集部次長。「九州に異動したのに北海道の話題なの!?」と首をかしげられそうですが、九州のテーマは「到着までしばらくお待ちください」!

(4)日本対外文化協会

 1805の「(3)全会一致で決議」で、1980年に衆参両院において「北方領土の日」の設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」が全会一致で決議された事を書きました。国会では全会一致でも日本国内に「北方領土の日」制定に反対している団体がありました。

 ソ連からの働きかけで発足した日本対外文化協会は最初の「北方領土の日」直前の1981年2月6日や当日の2月7日時点にても、「北方領土の日」はソ連への悪感情を育み、ソ連との友好と親善関係を害するとして、「北方領土の日」制定そのものを止めるべきとする反対声明を発表し続けました。

(5)1970年代後半の反動時代

 その 1805の(3)の冒頭に、「1970年代後半に入り、北方領土返還運動の高まりから」と書きました。1970年代後半は「反動時代」です。1960年代後半から1970年代前半にかけては左翼がパワフルだった時代です。

 1960年の安保闘争では岸内閣を総辞職に追い込んだ左翼勢力ですが、1960年代前半はそれ程左翼がパワフルだったとは言えない時代でした。1955年の自由民主党結党以前は、左翼がパワフルだった時代があったのですが、自民党結党以降は基本的には保守勢力優位が続いていました。

 1960年代半ばになって高度経済成長による負の遺産が明らかになり、再び左翼がパワフルだった時代がやってきたのです。革新自治体が増加しました。1968年から1969年にかけて日本の各大学で学生運動が燃え上がりました

 1971年の第7回統一地方選挙では革新都知事の美濃部亮吉が圧勝した。さらに、大阪府知事に黒田了一が就任した。この統一地方選では7知事が革新系となり、4500万人が革新首長の下で生活しているといわれた。

 1973年4月に東京都の多摩地区のとある都立高校に入学した私は、友人から「福田の住む日の出村はまだ革新自治体ではないのか」と言われました。馬鹿にされたと言って良いでしょう。その頃の東京都の多摩地区は結構革新自治体が多かったのです。特に多摩地区の中央線沿線は革新自治体が多く革新自治体ベルト地帯といわれていました。

 1973年には田中内閣の積極財政に起因するハイパーインフレ(狂乱物価)が発生した。国民の間では左派政党に対する期待が高まり、1974年の第10回参議院議員通常選挙では共産党が躍進し、社会党では左派の全野党共闘論が方針となった。

 1973年のオイル・ショックで経済の高度成長は終焉を迎えた。翌1974年は-1.2%という敗戦後初めてのマイナス成長となった。その為、若者の就職難が生じ左翼が多かった若者の何割かが保守化した。そうした当時の若者の有様を象徴したHIT曲が、バンバンとしては唯一のオリコン1位獲得曲となった<『いちご白書』をもう一度>だった。

 こうした保守化が進展した1970年代後半を、私は「反動時代」と呼んでいる。その反動時代に保守派から政権に二つの要求が出された。元号法制化と「北方領土の日」制定である。

 1973年のオイル・ショック後、石炭の生産量が落ちた。石油が大幅に高くなったのですから、石炭の生産量をUPさせるべきなのに。石炭を生産していた炭鉱を閉山させ、秘密裏に人造石油生産工場へと転換した。

 1973年と1979年の2回の石油危機を世界が経験した頃、アラブ諸国の石油資源は本当に枯渇してしまったという。そして、アラブ諸国は日本からの人造石油を輸入転売する商売の国へと変貌したという。


 「1981年、私の友人は北方領土の日の政府広報に出演しました。 PART3」に続きます。次の1807は違うテーマです。


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↓動画 矢島舞美
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