1661.岡田有希子さんは殺されたのではないか? PART1

↑画像 愛知県名古屋市中村区名駅 テルミナ地下街<現・ゲートウォーク地下街> 1984年 岡田有希子
https://ameblo.jp/suzuki-cappuccino-k100/entry-12372587328.html
(1)「1615.御巣鷹の尾根のトイレが、紙を箱にいれる中国韓国式なのはなぜか?」へのコメント計56本の17~21
「1659.岡田有希子さんと123便事件 PART3」の続きです。
猫山 #-
★To rikaさん、日月土さん、ヒロさんへ
■rikaさんへ
投身時間は12時5分って聞いたことがあります。15分説はrikaさんの書き込みで初めて知りました。
インターネット普及後に自殺までの経緯が書かれておりましたが。自殺をする日に○○ミュージックの社長は歯医者に行って留守。午前中に自室でガス自殺を図って病院に運ばれて一命を取り留められたそうですが、その岡田さんをマネージャーが事務所に連れて行ったと書かれていました。普通に考えて、自殺未遂を図った人を病院から帰らせるのでしょうか? そこの医師も、そのマネージャーも、歯医者に行っていたというサンミュージックの社長も知っていたのかもしれません。
また、亡くなった岡田さんが写った写真は黒い礼服のような服装です。本当に自殺をしようとする人がそんな服装に着替えるほど余裕があるものなのでしょうか?
ジプシークイーンはネット上に4月8日にレコーディングされたと書いてありましたね。まだインターネットが開通して数年の頃、ネット上で岡田有希子さんの死の真相を解いている方がいましたが、ジプシークイーンの歌詞の125ページというのは、何かの日付を表しているかもしれないと書いていました。
12月5日、前後125日の事かもしれないと。日付を検索するサイトで検索をかけてみました。(今更ですが)
1986年4月8日から125日後の日付:1986年08月11日(月曜日)
1986年4月8日の125日前の日付:1985年12月04日(水曜日)
後日125日後は日航機の撃墜事件で殺害されてしまった方々の一回忌の前日。前日は12月4日。12月5日の一日前。岡田さんの命日がいつになるか? わかっていて作った曲ととしか思えなくなりました。
■日月土さんへ
岡田さんが優秀な学校の出身というのは当時凄く有名だったと思います。なぜ、そんなに聡明な感じの方が生贄にされなければならなかったのかと感じております。
また、生前岡田さんが恋心を寄せていたのではないか?と報道をされていた峰岸徹さんも2008年に癌で亡くなっておられます。抗がん剤治療をされていたようです。岡田さんの事を含め、その背景を危惧して殺されてしまったのでしょうか?
>>2008年4月、元々悩みの種であった椎間板ヘルニアから来る腰痛の症状が悪化した事を理由として6月に出演が決まっていた舞台公演からの降板を発表していた。実際には3月に腰痛の手術準備で検査入院した際に肺癌であることが判明、それが腰にまで転移しておりすでに切除手術が出来ない状態との告知を医師から受け入院、5月から6月に抗がん剤投与、放射線治療などの闘病をしていた事が真の降板理由であった事が7月に公表された[3]。同年8月に仕事復帰したものの、10月11日23時32分、死去、65歳没[1]。生前から公私共に親しかった映画監督の大林宣彦が手掛けた映画には数多く出演し、2008年11月から公開された大林監督の作品『その日のまえに』が遺作となった。なお最後に公開されたのが「新宿インシデント」だが、撮影順では「その日のまえに」(2008年11月公開)が最後である。
また、岡田さんの件からそれてしまいますが、1985年8月12日当時、静岡県では夕方5時半より銀河鉄道999が放送をされておりました。今で言うフジテレビの系列だったと思います。8月13日から日航機の事件の報道が始まり、向こう一週間近く999の放送がされませんでした。その999は、同月末に最終回を迎えました。
しかし、翌月半ば過ぎから再び同じ放送局で999の放送が始まりました。時間は夕方4時半からだったと思います。子供心に「なぜ同じアニメを半月も経たずに放送するのだろう」と不思議に思っていました。日月土さんが999は666の意味が込めてあると先日ブログに書いておられました。やはり、悪魔的な意味を強調していたのでしょうか。
■ヒロさんへ
禁じられたマリコは見たことがありませんでした。rikaさんへのコメントと少しかぶってしまうのですが、岡田さんの命日の125日前。そのドラマはちょうど放送真っ只中のようですね。その125日前に当たるのは1985年12月4日。一日前に放送されているマリコのサブタイトルは「第5回 1985年12月3日 裏切り者と呼ばれて…」
日航機の事故から第三次世界大戦に持っていけなかったことで「裏切り者」とみなされた岡田さんへの当てつけのようなタイトルのような気がしました。(憶測に過ぎなかったら申し訳ございません。)
事故当時、私は少しずつ歌謡曲を聞くようになった年頃でまだまだ歌番組を好んで見るほどで見るほどではありませんでした。そのため、「シャイニン・オン 君が哀しい」という曲をまともに聞いたのはそれから10年後になります。私は、たまに音楽を聞いていて歌詞とか音で自分の中の軸が崩れるような感覚を覚える時があるのですが、この曲はまさにその一曲でした。
職場の有線で流れてきたのですが、歌詞がまともに耳を掠めた途端に、誰もいない更衣室に駆け込んで、涙を拭いた程でした。ヒロさんの書き込みで、改めて歌詞を読んでみました。失恋のことを歌っているのに、それ以上の悲しみがこもっているような印象でした。
wikiを見たら、
>>「シャイニン・オン 君が哀しい」(シャイニン・オン きみがかなしい)は、ルックのデビューシングル。1985年4月21日にEPIC・ソニーから発売された。
と書かれていました。
しかも
>>協和発酵「サントネージュワインクーラー」のCMソングに起用された。発売当初は低調な売り上げだったが、同年7月11日にTBS系「ザ・ベストテン」のスポットライトのコーナーに出演後、徐々にランキングを上げ8週間(1985年8月1日初登場、1985年8月15日 - 同年9月26日の7週連続)に渡りランクインし[2]、20万枚を売り上げた大ヒット曲となった[1]。
低調な売上げだったようですが、日航機の墜落事故の約一ヶ月前にベストテンのスポットライトのコーナーに出演と書いてあったので、意図的にそのそうしたのか? と勘ぐってしまいました。シャイニンって輝くとか、スポットを浴びることみたいですが、なぜ哀しいとかけるか不思議な表現です。
ちなみに福田さんのブログに出てくる、ラブライブサンシャインのキャラクターにマリーという子がいます。
>>小原 鞠莉(おはら まり)
声 - 鈴木愛奈
高校3年生。一人称は「私」または「マリー」。セミロングヘアの前頭部を編み込み、向かって右側に編みこんだ髪の余りを輪にして留めている。趣味はスポーツと乗馬、特技は柔軟と歌、好きな食べ物はコーヒーとレモン、嫌いな食べ物は納豆とキムチ。口癖は「シャイニー☆」で、演じる鈴木がイベントで用いるコール&レスポンスにも用いられている。
ホテルチェーンを経営するイタリア系アメリカ人の父親を持つハーフの女子生徒。父の仕事の都合で沼津にやって来た。明るい性格で個人行動を好む反面、どんなことがあっても絶対にめげない性格で恐れを知らないチャレンジャー。千歌にたびたび勧誘を受けるも、好きな音楽はインダストリアル・メタル[9]と正反対な音楽性のためあまり乗り気ではなかったが、仕方なく参加して徐々にであるが興味を示すようになる。
彼女の口癖が「シャイニー」です。このラブライブサンシャイン、表向きの発表は2016年ですがメンバーの活動の始動は2015年頃だそうです。日航機事変から30年後だと思うと、シャイニンもシャイニーも意図的に発せられているようにも感じてなりません。シャイニン・オン君が哀しいという曲を知っていれば、シャイニーっていうセリフを聞けば何かすら心に掠めることがあるからじゃないかと私は見ております。
福田さんや、日月土さんのような的を得たことではなく申し訳ございませんでした。
2018/11/06 (Tue) 08:29 | URL | 編集 | 返信
猫山 #-
★ヒロさんへ 追伸です。
サントネージュって聖なる雪という意味を持っているそうです。雪の結晶は六角形です。
https://kids.gakken.co.jp/kagaku/110ban/text/1447.html
カゴメの紋章に見えなくもありません。
シャイニン・オン君が哀しいがCMソングとして使われていた。ワインの名前は「サントネージュワイン」だとwikiに書いてありました。当時のCMを見てみました。
https://www.youtube.com/watch?v=VLASjEzpHgY
瓶には雪の結晶らしいマークは使われていませんでした。
この楽曲が起用されたことは単なる偶然でしょうか?気になります。
1985年4月21日にシャイニン・オン君が哀しいが発売になっているのに、楽曲の中は冬と夏が散りばめた歌詞。12月8日、8月12日、こんな日付を連想させるような気がしております。
あと、日航機撃墜事件の前の年に始まったグリコ・森永事件。wikiには
>>1984年3月の江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。
>>1984年3月18日21時頃、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長:江崎勝久の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り
と、書かれています。18という数字から666が浮かぶように感じています。単なる憶測に過ぎなかったら申し訳ございません。
2018/11/06 (Tue) 10:12 | URL | 編集 | 返信
ヒデ #-
★日月土さん
返信有り難うございます。なかなかの術者がいる見たいですね。法で裁けない効果的な遣り口が、正に闇(地下)の住人というのを物語っていると感じました。
2018/11/06 (Tue) 10:47 | URL | 編集 | 返信
日月土 #-
★ひろさんへ - 「禁じられたマリコ」への見解
このドラマは超能力者マリコを巡る物語ですが、なんと言ってもメインタイトルに注目です。主役には「麻里子」という正式な漢字名が当てられているのにどうして「マリコ」と片仮名なんでしょう?
こういう場合、実在する「マリコ」さんが別に居ると考えられます。そして、有希子さんをマリコ役にすることで、実在する「マリコ」さんを有希子さんに仮託しているのだと考えられます。その傍証となるのが、第9回放映の「もう一人の超能力少女」というタイトルです。
そして、放映終了から2ヶ月半後の1986年4月8日、有希子さんを投身死させることで、その「マリコ」さんへの呪いを完成させたと見ることができます。その暗示は第4回「生きていてもいいですか」、第10回「死の実験室」というタイトルに現れています。
実はこの「マリコ」さんに該当する人物に思い当たる節があります。外見はいたって普通の女性ですが、陰陽師の世界では知る人ぞ知る霊能者で、私も会ったことがあります。年齢は有希子さんよりちょっと上くらいでしょうか。お墓で死者と会話したり、人の先祖とお話するなんてのは朝飯前で、極みつけは、この人と一緒に飲食店に入ると、どんな時間、どんなにガラガラの店でも30分以内に満席になるという不思議な現象が実際に起きることです。私の所感では、能力は間違いなく世界トップレベルなのに、全くそれを生かせてなく残念な人だなと思っていました。もしかしたらこのドラマで能力封じを掛けられたのかもしれません。
すぐにその人と結び付けるのもどうかと思いますが、紙の人型に息を吹きかけて厄を仮託するように、人を人に仮託してコントロールする方法は陰陽道の技術の中に存在します。能などは元々そういう役割の芸能だったはずです。このドラマの場合、有希子さんをそのように使った可能性は極めて高いと思われます。
※私は岡田有希子さんも相当な霊能者であったと見ています。そうでないと、最強クラスの霊能者を仮託される役割に耐えられないと考えられるからです。
2018/11/06 (Tue) 11:38 | URL | 編集 | 返信
猫山 #-
★To 日月土さん
ネット上で読んだことがありますが、岡田有希子さんは、カメラアイの持ち主だったそうです。
2018/11/06 (Tue) 15:17 | URL | 編集 | 返信
(2)ユッコとヤッコ
岡田有希子さんはユッコと呼ばれています。ヤッコは遠藤康子さんです。ともに1980年代のアイドルであり、ともに自殺したとされています。1659の(3)に遠藤康子さんの自殺という話が出てきます。

↑画像 中山美穂(左)と遠藤康子(右)が起用された『花とゆめ』(白泉社)の懸賞ページ。中山美穂は当時12 歳、遠藤康子は14 歳という若さだった(学年では1年違い)。二人が在籍したボックスコーポレーション時代の貴重なショットだ。1983 年7月20日号より。
https://www.idol-forever.jp/memory-of-yasuko-endo/
漢字が違いますが、同じ発音の遠藤泰子アナウンサーは75歳になりました。
(3)岡田有希子という悲劇 ユッコが語っていたヤッコの死 転載記事
遠藤康子が天国へ旅立ってから9日後、岡田有希子がサンミュージックの屋上から身を投げた。二人が仕事で一緒になることはなかったが、同じアイドル雑誌に載ることは度々あった。例えば『DELUXE マガジン』1984年12月号で、ユッコ(岡田有希子)のグラビア&日記ページの後に、ヤッコ(遠藤康子)の水着グラビアが続くといった具合だ。
自分が載る雑誌を欠かさずチェックしていたなら当然、有希子が康子の存在を早い段階から気づいていただろうし、オリーブモデル、シスターモデルだった康子のことを知らなかったとは考えにくい。
康子の自殺はワイドショー、スポーツ新聞で取り上げられたし、有希子を管理していたサンミュージックが、この件について有希子本人と話し合っていた可能性は極めて高い。ちなみに康子の事件を最初に扱った週刊誌の発売日は、有希子の死亡日とほぼ重なった。
有希子は康子の事件について、2つのコメントを残したことがわかっている。1つ目は、有希子が亡くなる3日前、1986年4月5日のもの。「なにもねえ自殺しなくても...どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに。ほんとうにかわいそうね」
これは有希子が友人に語ったもので、友人の証言によれば格別の反応とは思えず、ごく普通の口調だったという。この日の彼女は、渋谷公会堂でコンサートツアー『Heart Jack』を昼夜2回の公演を行っている。
2つ目は、その翌日、1986年4月6日のもの。「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」有希子は名古屋から東京へ戻る、新幹線の車中でポツリとつぶやいたという。
この日も、コンサートツアーの名古屋公演があった。会場は有希子の実家から歩いてすぐの名古屋市民会館。公演終了後、高校時代の友人たちと会食した彼女は、その後、実家へ立ち寄り、しばし羽を伸ばした。新幹線の出発時間ギリギリまで実家に滞在した彼女は、父親に名古屋駅まで車で送ってもらい、新幹線に乗った。これが家族と最後の別れとなった。
「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」は、サンミュージックの相澤社長が後に明らかにしたもので、コンサートに同行したスタッフに向けて言った発言だと思われる。
どちらのコメントも興味深い。岡田有希子は「男関係の精算を迫られた」という康子の報道を、そのままに受け取っていた。彼女の中では〝仕事〟よりも〝恋愛〟のほうに大きな比重が置かれていたことがわかる。
「どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに」と言っていたように、「恋愛を取るか、仕事を取るか」の二者択一を迫られた場合、友人の前で「仕事を捨てる」というスタンスを取った。また、そうした問題があっても自殺する必要はないとまで語っている。
「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」の発言の真意は定かではないが、前日の「ほんとうにかわいそうね」と同様、同情心からきたものだろう。久しぶりに友人や家族に会ったことで、生きていることをしみじみと実感したのか。あるいは、故郷に戻ったものの、自分の時間もままならない己の境遇と照らし合わせたのか。
当時、サンミュージックは松田聖子が神田正輝と結婚し、出産で休業していた。2年前には都はるみが引退するなど、実質、岡田有希子と早見優が稼ぎ頭だった。コンサートツアーを無事に終了した彼女だったが、東京に帰ればレコーディング、テレビ、ラジオ、CMにとスケジュールはビッシリ詰まっていた。
康子の訃報を聞いた有希子は「なにもねえ自殺しなくても...」と思いつつ、そこまで恋に一途になれたデビュー前のアイドルにシンパシーを抱いたに違いない。そして、ますます意中の男性への思いを募らせていったのではないか。
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>なにもねえ自殺しなくても...どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに。
>そうした問題があっても自殺する必要はないとまで語っている。
>有希子は「なにもねえ自殺しなくても...」と思いつつ、
故に岡田有希子さんは自殺したのではなく、だれかに殺されたと考えた方が話が通る。
(4)死の当日は朝から黒い服だった様です。少なくともスカートは。
>午前中に自室でガス自殺を図って病院に運ばれて一命を取り留められたそうですが、
これがそもそも自殺未遂ではなくて殺害の失敗であり、ここで殺人鬼どもは失敗したので第2弾に打って出たという説があります!
>また、亡くなった岡田さんが写った写真は黒い礼服のような服装です。本当に自殺をしようとする人がそんな服装に着替えるほど余裕があるものなのでしょうか?
早朝に岡田さんを乗せたと主張したタクシードライバーの証言によれば、死の当日は朝から黒い服だった様です。少なくともスカートは。
>なぜ、そんなに聡明な感じの方が生贄にされなければならなかったのかと感じております。
聡明な方が生贄にされやすいのです。現在の日本の政界はその結果、馬鹿ばかりになってしまったと言えるかも。安倍晋三の様な世襲の無能の支配者にとって、成り上がりのクレバーな奴は嫌なのです。
>峰岸徹さん・・・殺されてしまったのでしょうか?
そうかもしれません。
>1985年8月12日当時、静岡県では夕方5時半より銀河鉄道999が放送をされておりました。今で言うフジテレビの系列だったと思います。
1985年8月当時の首都圏のフジテレビの夕方5時は、「夕やけニャンニャン」を放送していました。
>福田さんや、日月土さんのような的を得たことではなく申し訳ございませんでした。
いつも興味深いコメントを書いて下さっていますよ。
(5)1986年4月8日 夜明けの成城学園前駅 転載記事
1986年4月7日午後11時半過ぎ、生田智子との電話を切った後、30分も経たないうちに日付けは4月8日に変わった。午前中、自殺未遂で発見されるまでの間、岡田有希子は何をしていたのか。何かをしたはずだ。
この日、もし予定通りドラマの収録があったならば、何もせずに、部屋に届いたばかりのベッドの中にもぐりこんだかもしれない。時間はたっぷりあった。ドラマの収録が1日延期したことで、前日に続きスケジュールがオフとなった。
この時期、有希子は「夜眠れない」と不眠症を訴え、夜中の3時にスタッフと一緒に食事をすることもあったという。意中の人を思い、眠ることもままならず、身もだえていた。「じっとしてられない」有希子は南青山のマンションを飛び出した。向かった先はいったい....。
彼女が向かった先...。それは67歳の個人タクシー運転手の証言から見えてくる。この運転手こそ、自殺未遂前の岡田有希子を最後に目撃した人物である。1986年4月8日、午前5時15分。
タクシー運転手は世田谷の街を流していた。ようやく空が白みはじめたころで、外は肌寒く、気温は5度にも達していない。聞こえてくるのは、鳥のさえずりと新聞配達員がポストに朝刊を投げ入れる音だけだ。まだ街は眠たげだ。
成城学園前駅の踏切を通り過ぎてすぐ、反対車線の歩道で手を上げる若い女性客がいた。酔客を乗せるピークはとっくに過ぎている。この時間帯の利用客といえば、仕事を終えた水商売関係者、飛行機や新幹線のチケットを握った出張族がメインだ。黒いスカートをはき、手にはルイヴィトンのバッグ、こんな時間にサングラスをかけている。
〝ホステスだろう〟職業柄、運転手がそう思ったのも無理もない。女性は岡田有希子だった。車内の時刻は午前5時20分を差していた。彼女がタクシーをとめた場所は成城6丁目。峰岸徹の自宅まで直線で約500メートル、徒歩で10分もかからない距離だ。
遺書(書き置き)には「電話もかけてくれない」「もう一度お会いしたかった」「待っていたけど、あなたは来なかった」とあった。峰岸の所属事務所によれば「あの日、峰岸は前夜から友だちがきていたので、ずっと家にいましたが、誰も訪ねてこなかった」という。
有希子は峰岸邸に行かなかったのか。門の前にたたずみ、 窓から漏れる明かりを眺めた。チャイムを押せば彼に会えた。押すのをためらったのだろうか。あるいは...。再びかけた電話が彼に通じ、成城にいることを打ち明けた。その後、彼が来るのをずっと待ち続けたのだろうか。寒空の下、身を縮こませながら...。
いずれにしろ、傷心のまま、夜明けの成城をあとにした。そして、タクシーを拾った。「八重洲口まで行ってください」と小さな声でつぶやき、サングラスを外した彼女。目は泣きはらした後だった。服装が黒っぽかったこともあり、運転手は〝通夜の帰りかな〟〝これから新幹線に乗るのかな〟と思った。
「時間は?」「6時ぐらいまでに着けばいいです」声がかすれていたので、運転手は彼女にキャンディー2つをあげた。早朝なので高速道路を使う必要はなく、6時前には東京駅に着く。杉並方面に向かっていた運転手は、彼女を乗せると進路を南に変え、世田谷通りを目指した。世田谷通りを抜けて、青山通りに出るとタクシーは面白いように次々と青信号を通過していった。交通量もまばらな渋谷、赤坂の街を通過し、三宅坂のあたりで彼女は突然、口を開く。
「さっきは、どうもありがとうございました」キャンデーのお礼をきっかけに、このタクシー運転手と有希子はわずかばかりの会話をかわしている。車中では、なぜか斉藤由貴のカセットテープが流れていた。
「この人の歌が好きなんですか?」仕事仲間の歌を思わず耳にして、彼女は話しかけずにはいられなかった。運転手は年甲斐もなく、アイドルが好きで詳しかった。泣き顔をジリジロ見てはいけないと、さっきまで遠慮していたが、こうして見ると女性客の顔には見覚えがあった。
「あれ? あんた、今いちばん売れてる岡田有希子さんか?」「ハイッ」この時、彼女は元気に笑ったように見えた。
有希子を乗せたタクシーは東京駅にそろそろ着こうとしていた。都庁(旧都庁・丸の内庁舎)の建物が見え、国鉄(現・JR)のガード下をくぐり抜けたときだった。
「あ、すみません。ここで降ります」突然、彼女は降車場所を変更した。料金メーターは4千数百円を示す。彼女は財布から5千円札を差し出し、おつりを受けとる。「ありがとうございました」タクシーを降り、旧都庁わきの工事現場をすり抜けていく有希子。
運転手は 〝こんなところで降りて危ないな〟と思いつつ、現役アイドルを乗せたことで得した気分になった。このときの時刻は、午前5時55分。彼女が降りた場所から東京駅までは徒歩で5分ほどの距離だ。
そもそも東京駅には何をしに行ったのだろう。名古屋の実家に帰ろうとしたのだろうか。一晩中泣き明かした彼女。暖かい家族のぬくもりが恋しくなったとしても不思議ではない。
しかし、彼女は新幹線には乗らずに、南青山のマンション自室に戻っている。この後すぐに戻ったのか、さらに街をさまよったのかは定かではない。
タクシーを降りた午前5時55分から、午前10時ごろに押し入れで泣いているところを発見されるまでの約4時間。この間の岡田有希子の行動はわかっていない。
何もかも疲れ果て、人生そのものに絶望し、死に場所を選んでいたのだろうか。旧都庁わきで、突然タクシーを降りたのも謎だ。8階建ての旧都庁にのぼろうとしたのだろうか....。

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