1526.群馬県多野郡上野村・東京都西多摩郡奥多摩町・東京都西多摩郡日の出町・静岡県沼津市 PART3

↑画像 2018・夏・海98 2018水着シリーズ75 矢島舞美
(1)「帰れまサンデー」の時代に
2018年9月30日の3本目です。「1525.群馬県多野郡上野村・東京都西多摩郡奥多摩町・東京都西多摩郡日の出町・静岡県沼津市 PART2」の続きです。1525は完成後に追加と修正をしました。申し訳ありません。午前9時以前に来訪なさった方、よかったら再びご来訪下さい。
「帰れマンデー見っけ隊‼」の前身とも言える「帰れまサンデー・見っけ隊」の時代にも上野村は取り上げられていますね。
(2)口封じの歴史・高天原山事変296 群馬県多野郡上野村・東京都西多摩郡奥多摩町・東京都西多摩郡日の出町・静岡県沼津市の共通点
この四地点に共通する点は123便の目撃証言がある事です。静岡県沼津市の目撃証言は、「766.静岡県沼津市に約2年前からクロカモと思われる人々が常にいるのはなぜか?」の(1)に記載されています。
東京都西多摩郡日の出町の目撃証言は、「(新) 日本の黒い霧 JAL123便墜落事故-真相を追う-そしてミサイルは発射された(15) 2011-01-06 10:17:42」のコメント欄にあります。
このコメント欄に投稿されたコメント数は何と80もあり、とても長いコメントが多いので、なかなか該当部分が見つかりにくいと思います。それは2011-02-13 01:35:19にUPされたコメントの中にあります。この80のコメントの多くは私と123氏のコメントです。いずれ拙ブログの本文に転載しようと考えています。
1985年8月12日、123便は東京都西多摩郡五日市町<1995年9月1日、隣の秋川市と合併し、あきる野市の一部となった。>にある都立五日市高校の上空辺りを飛び、西多摩郡日の出町方向の山へ消えました。時間は午後6時45分頃の20から30秒間です。(角田四郎氏取材南澤輝明氏証言)
(3)口封じの歴史・高天原山事変297 角田四郎氏
角田四郎氏は123便事件の当日、山梨県大月市付近で123便を目撃した。角田四郎氏は当日大月付近でキャンプをしていた。目撃時刻は午後6時42分頃だという。123便が都立五日市高校の上空辺りに現れた頃、123便を追いかける様な雰囲気の2機の自衛隊機が123便が向かっていった方向に進んでいったという。

↑画像 山梨県大月市と東京都あきる野市と東京都西多摩郡日の出町と東京都西多摩郡奥多摩町と群馬県多野郡上野村が掲載されている地図
http://sky.ap.teacup.com/nobuzii02/319.html
後に角田氏はJAL123便事件解明の為、「疑惑/JAL123便墜落事故」(早稲田出版)をリリースした。
(4)口封じの歴史・高天原山事変298 棺桶屋{「564.JAL123便を米軍が撃墜したと言う説は真実か?」<拍手+いいね=80>の「(5)口封じの歴史・高天原山事変編50 1985年8月12日に向けて」から再掲}
1985年8月11日、つまり、高天原山事変の前日、500もの棺桶が地元の業者に発注されていた。そこでアルバイトをしていた労働者は徹夜で作業し、ボーナスをもらった。やがて、その会社は不審火でまる焼けになり、伝票類は灰になってしまった!
参考文献:角田四郎著 「疑惑-JAL123便墜落事」 早稲田出版刊
(5)口封じの歴史・高天原山事変299 西多摩郡日の出町の目撃証言
西多摩郡日の出町細尾の北島清司<当時53歳>氏が123便を目撃した。北島氏は、「(123便が)東南東より西北西の御岳山の方へ向かった」と証言した。日の出町細尾は、「1507.進次郎が石破を支持したのはなぜか?」の(1)で取り上げたテレビ朝日の「帰れマンデー見っけ隊‼」」で取り上げたエリアになります。
北島氏が123便を見た直後の18:46:04、ボイスレコーダーに「おい山だぞ」という声が記録されている。ライトターンして御岳山や日の出山との衝突は回避された。18:46:54JAL123便は東京コントロールと交信を開始した。1507の「(2)東京都西多摩郡日の出町」に御岳山と日の出山の話が出てきます。

↑画像 御岳山と日の出山が掲載されている地図
http://dokodemo-doa2.cocolog-nifty.com/blog/cat23853684/index.html
北島清司氏の証言は「506.中曽根康弘が長期政権を築いたのはなぜか?」の「(1)秋川霊園(あきかわれいえん)」にも記載されています。
(6)口封じの歴史・高天原山事変300 リモートコントロールされた123便
123便はリモートコントロールによるフラップ操縦で急降下状況に陥った。18:46:58、ボイスレコーダーに「うあっ…大変だっ」という声が記録されている。18:47:00、各種警報装置が一斉に作動した。「現在コントロール出来ますか」という東京コントロールの問いかけに対して、123便から「アンコントローラブルです。アー操縦不能。」との応答があった。18:47:07、交信を終了した。123便は機体の立て直しに全力をつくして、直ちにフラップアップで上昇に転ずるが、其の間にリモートコントロールによるレフトターンに機長は慌てた。そう123便はリモートコントロールされていたのだ。
{「564.JAL123便を米軍が撃墜したと言う説は真実か?」<拍手+いいね=80>から再掲}1985年8月12日の夕方に123便となるジャンボ機は、前日の1985年8月11日午後9時40分以後、羽田空港内整備工場に入り点検を受けた。
航空機の飛行制御がコンピュータで行われている以上、その航空機を別のコンピュータで遠隔操縦することは不可能ではない。別のコンピュータから、デジタル信号電波を遠隔操縦する飛行機に送れば、当該航空機は遠隔操縦を受ける。つまりラジコンと同じ原理である。遠隔操縦される飛行機には受信装置があり、リモートコントロールされる。ただしリモコンされても、航空機の操縦桿の動き等は、特に人力で制御された場合には、リモコン電波との鬩ぎ合い<せめぎあい>が起きることになる。
1985年8月12日、JAL123便が羽田空港に引き返すこともできずに、御巣鷹の尾根に撃墜させられたのは、遠隔操縦が原因だったと推測される。いつJAL123便に遠隔操縦受信装置<リモートコントロール受信装置>が取り付けられたのか? おそらく1985年8月11日から12日にかけての徹夜の点検作業の際、取り付けられたのだろう。
日航機撃墜計画を事前に察知しその阻止に動いた方がいた。割腹自殺したとされている。割腹自殺ではなく日航機撃墜計画決行と口封じの為の殺害ではなかったのか?
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/db981bc5d878822ac20bf865a924a724{再掲終了}
「1527.群馬県多野郡上野村・東京都西多摩郡奥多摩町・東京都西多摩郡日の出町・静岡県沼津市 PART4」に続きます。

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