fc2ブログ

142.最近、ネットからニュース動画が多数削除されているのはなぜか?

img_1268749_52693969_4.jpg

(1)初期報道の重要性

陰謀事件の場合、初期報道にこそ、まさに事件の「真実」が潜んでいる場合が多い。

残念ながら、そうした報道は、陰謀側、あるいは、支配層によって、しばらくすると、削除されたり、「真実」と正反対の方向にねじ曲げられたりする場合が多い。

もちろん、初期報道の方が間違っていて、後に訂正する場合もあるだろう。

関越バス事故の河野化山運転手の場合、車体の破損状況からして、「内臓破裂」の重症と言う初期報道の方が正しいように思える。

(2)日航123便墜落事故の初期報道

1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故も、初期報道においては、後に隠蔽される重要な事実も報道された。

そうしたニュースは、以前なら、YouTube で確認できた。

2012年6月22日午前0:00現在、それらの貴重な映像の多くが視聴不能となっている。

(3)1985年8月12日 自衛隊員射殺報道 NHK

テロップ
「20:00上野村三岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺」

その後の放送でアナウンサーにより、
「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に 向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします」
と報道。

そして、
「先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です。」

(4)JR福知山線で脱線横転 車と衝突、けが人多数 [2005年 04月25日 10時08分 ] 共同通信

兵庫県警に入った連絡によると、25日午前9時20分ごろ、兵庫県尼崎市久々知西町の尼崎−塚口駅間のJR福知山線で快速電車が自動車と衝突して横転して脱線。1両が線路脇のマンションに激突した。

 兵庫県警や尼崎市消防局によると、電車横転事故によるけが人は50−60人に上るという。

(5)2005年の福知山線脱線事故の初期報道 【報道から消えた李嘉晃】 宝塚線事故の謎 【ワゴン車証拠隠滅】

 この事件での最大の謎は、当初即死したと報道された、白いワゴン車に乗っていた「李嘉晃」なる人物のことがその後一切報道されないことである。

 報道のリンクは全て消され、2chやブログなどでのみその痕跡が残っているだけである。

多くの皆様は、この事故(事故と言うより事件と表現した方が良いような気がする。)を、日勤教育で虐められた若い運転士が遅れを取り戻すべく、スピードを出しすぎてマンションに突っ込んだ事故であると認識なさっていることでしょう。

はたして、その認識は正しいのでしょうか?

詳しくは、今後執筆予定の別の記事に譲るとしよう。

あの日の朝の初期報道
【09:53】尼崎消防によると、兵庫県のJR福知山線で電車に自動車が衝突し、電車が横転、けが人が多数出ているもよう。自動車を運転していた李嘉晃さんは即死。


朝9時53分に、LIVEでそのニュースに接することができなかった人々は実に多い。筆者ももちろんその時間に教育労働者として労働をしていた。

そうした人々の多くは、あの日、JR福知山線の当該電車に自動車が衝突したと言う事実を知らない。

 初期の報道では、JR福知山線の当該電車に衝突した結果潰れた白いワゴン車と、その横で倒れてる人がTVに映っていた。

自動車を運転していた人物名も、李嘉晃とはっきり報道していた。

だが、やがて、白いワゴン車や李嘉晃についての報道は、不自然なほど抑制されていった。そして、報道されなくなった。

 つまり、白いワゴン車と李嘉晃の存在自体が無かったことにされてしまったのだ。

故に、前述の通り、あの日、JR福知山線の当該電車に自動車が衝突したと言う事実を多くの人々は知らない。

 重要な物的証拠である白いワゴン車は、事故の19時間後に撤去され、現場でプレスされてしまった。

 証拠隠滅であろう。

 サリン製造所とされている第7サティアンを早々と解体してしまった卑劣極まりないやり口とまったく同じではないか。

我々は、こうした悪辣極まりない警察のやり口を徹底して天下万民に流布し、国営テロ集団クロカモ>を完膚無きまでに叩きのめす必要がある!

白いワゴン 福知山線事故現場
↑白いワゴン 福知山線事故現場

福知山線に自動車衝突
↑右下の赤で囲まれている人物が、李嘉晃と推測されている。

福知山線事故現場

(6)スー・チー イギリス議会で演説

ミャンマーの最大野党の党首、アウン・サン・スー・チーは日本時間の昨夜<6月21日>23時頃、イギリス議会で演説しました。

その前々日の19日、24年ぶりに訪れたイギリスで、母校のオックスフォード大学を訪れた。

 1988年まで、この地を生活の拠点としていたアウン・サン・スー・チーは、母校のオックスフォード大学を訪問した。

 この日が67歳の誕生日となるアウン・サン・スー・チーは、学生やイギリス在住のミャンマー人たちにお祝いの歌で迎えられ、笑顔で応えていた。

 また、アウン・サン・スー・チーが、学生時代に暮らしていた大学の寮でも誕生日パーティーが開かれ、大学関係者や友人たちから祝福を受けた。

 アウン・サン・スー・チーは、20日にオックスフォード大学から名誉博士号を贈られた。

tumblr_lxadmke6Sg1r8i9f3o1_400.gif
スポンサーサイト



Latest posts