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1397.広島の非核爆発からわずか3日後の1945年8月9日、広島電鉄の路面電車が復旧したのはなぜか? PART2

鞘師里保 広島パルコ前
↑画像 爆心地とされる場所から近い広島パルコ前 広島県広島市中区 鞘師里保 広島パルコは中四国唯一のパルコです

(1)広島の非核爆発からわずか3日後の1945年8月9日、広島電鉄の路面電車が復旧したのはなぜか?

 2018年8月20日の5本目です。「1396.広島の非核爆発からわずか3日後の1945年8月9日、広島電鉄の路面電車が復旧したのはなぜか? PART1」の続きです。

 広島電鉄の路面電車は地下原発によって動いていたと考えられます。故に1945年8月6日の広島の非核爆発後、地上の惨状に比べれば地下原発は損傷が少なかったのではないでしょうか。

 そう考えれば、NHKのドラマ「被爆70年 一番電車が走った」に描かれていた阿部寛が演じた広島電鉄の社員が、不眠不休で地上の配電設備を修理するシーンはフェイクの可能性が高い。

 現実には広島電鉄の社員は、損傷が少なかった地下原発の復旧に尽力していたのではないか。

 そして広島電鉄は、広島の非核爆発に関与している可能性がある。


(2)(新) 日本の黒い霧 広島・長崎、原爆73年後の真実(1) - 広島の原爆はなかった 2018-08-07 18:48:06 / 改ざんの日本史 転載記事

https://blog.goo.ne.jp/adoi/e/0822755d0e1a4ad720310e5fd1a70a53

 昨年「長崎72回目の原爆の日に」を記して以来、それっきりになっていた原爆について、少々書き足しておきたいと思います。

 話の切り出しとして、上記記事にて読者様にご覧になるようお勧めした、昨年放送のNHK番組「原爆の絵”は語る~ヒロシマ 被爆直後の3日間~」から、そこで紹介された被爆者の描かれた絵をご紹介します。

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 誰が見ても、これは被爆者でこの絵を描かれた武田晴彦さん(当時12歳)が目撃した核爆発の瞬間と捉えることでしょう。かく言う私も、これまでは特にその常識的な考えに疑いはありませんでした。でも、ちょっと待ってください、何かおかしくありませんか?

 戦後、武田さんが記憶を頼りに自らこの絵を描かれたということは、以下の事実を示していると考えられます。
 
1.武田さんは核爆発の閃光により失明することはなかった
 
2.武田さんは強力な放射線の直射から身を隠す時間があった

 原子核理論的には、核爆発が発生したその瞬間に強力な放射線が発生し、少し遅れて爆風がやってくると予想されます。その予想が正しいなら、この絵を描かれた武田さんは、このシーンを目撃したとほぼ同時に放射線に焼かれてしまうか、視力に大きな障害を負っていたはずです。そして、視力に障害を負っていたなら、絵画によりこのような複雑な色彩の表現は不可能だったはずです。

 そして、人はその情景を一瞬で脳裏に焼き付けることはできますが、身を隠すには、それから1秒以上の時間がかかるはずです。しかし、光速で移動するガンマ線にとっては、1秒という時間はとても長い時間です。身を隠すよりも、瞬きするよりも早く武田さんに襲い掛かっていたはずだと容易に想像されます。

 この不可思議な事実の相反から導かれる仮説、その一つは以下のようになります。

 この絵は核爆発の瞬間を捉えたものではない

 つまり、描かれたのは別の物理的原因で生じた発光体であるということ。そして、ここからさらに次のような疑いが想起されるのです。

 広島で起きた爆発は、核爆発ではなかった(長崎も)

 こう書くと、それではあの世界を震撼させた大惨事は何だったのだ?その後人々が苦しんだ放射線障害は何だったのだと、当然のように反論をいただくかと思います。私も、その答にずっと窮していましたが、この度、やっとその答と言える結論に辿り着く事ができました。それについての詳細は次の記事以降に譲るとして、その答を示唆する図を下記に示します。もしも、読者様がこの記事をまじめに取り合ってくださるなら、これについてぜひ考えてみてください。

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 ネットの世界では、広島・長崎の原爆を、従来通りの空中起爆か、または地上に仕込まれた地上起爆とするかが争点になっておりますが、私の所感としては、事象的には空中起爆が正しく、構造的には地上起爆が正しいとします。

 要するに、核爆発なんてものがこの世に存在すると考えること自体が、まやかしであるという立場で、広島・長崎の悲劇は全く別の手法によって引き起こされたとするものです。戦後73年間、核戦争が発生しなかった理由を核の抑止力と捉えるのは勝手ですが、この複雑な世界で、そんな理由付けはあまりに幻想的だとは思われないでしょうか?核兵器なんか初めから無かったと考える方が、よっぽど合理的な説明だと、私は思うのです。

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 金委員長、トランプ大統領、まずはこんな答でご容赦ください。核放棄も何も「そんなもん最初っからねぇよ!」と叫びたいところでしょう(笑)

キリストの御国にて記す 管理人 日月土

(3)「1385.花火と空中起爆」への公開コメント

猫山 #-

>>ウィキの島病院の項目に「1946年春三村明が撮影した米軍映画撮影隊による物理的被害状況映像」がある。

 この動画の20分以降に、本川国民学校近くの、太田川左岸が映されているけれど、岸とその周辺がクレーター状にえぐれているように見える。(別の写真でも、えぐれてることを確認した。)

 相生橋の南側欄干が、爆心地が島病院上空であれば、北側に傾くはずだけれど、逆に南側に傾いている。(動画11分15秒以降)

 また、相生橋北側の破壊状況が、南側より酷いことが分かる。(動画15分17秒以降)

 電柱も南側に傾いでいる。

 さて、以上のことを勘案すると、爆心地は、相生橋の北側にあり、本川国民学校近くの太田川左岸をえぐることが、できる位置だと推測できる。

 広島商工会議所の西隣にあった広島電鉄櫓下変電所が、その位置に該当する。

 動画は見つけられませんでしたが、原爆地上爆発説を裏付けるような記事がありました。

2018/08/11 (Sat) 16:51 | URL | 編集 | 返信

(4)空中起爆 地上起爆

 (2)の転載記事に出ている1945年8月6日の朝に武田晴彦さんがご覧になった上空の光景は、プラズマを利用して爆発させる為の材料<爆薬に代わる材料>が空中に集まった状況だと考えられます。

 そうした材料が集まった玉が、1945年8月6日の朝の広島上空にいくつかあったと考えられます。透明の玉もあったと推測されています。

 その材料の密度が濃い時に、あるいはその材料がある程度下がった段階で、地上からの放電により材料が着火し、燃え上がって爆風が起きたのではないか。

 ですからその材料はそう高度は高くないものの、一応空中で爆発したので空中起爆と言えるし、起爆装置は地上にあったので、地上起爆とも言えるのです。

 空中起爆とは言え、高度が高くないので、海抜約70メートルの比治山のお陰で、後にプロ野球選手になる張本勲氏は助かったのです。


(5)比治山の東と西の明暗

 <「張本勲」のwikiより転載開始>1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した。この際、学徒勤労動員で比治山の西側にいた、当時14歳だった長姉の点子は、大火傷を負い数日後に亡くなった。点子の最後を看取った張本によれば、担架で運ばれた点子は全身にやけどをしていた。「『熱いよう、熱いよう。』母の懐でうめく点子にブドウを一房もぎ、口元で搾ってあげた。『ありがとう。』消えそうな声が最期だった」と語っている。<転載終了>

 1398に続きます。

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↑画像 広島市の地図 比治山は比治山公園と書いてある所です 段原は段原中と書いてある所です


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