91.林子平を弾圧したのは誰だ?

桜 近野成美
↑桜 近野成美

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(1)林子平

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林子平は、江戸時代後期の経世論家である。経世論家とは、今で言えば、経済学者と言った感じである。林子平は、兵学者とも言われている。

高山彦九郎蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人とされている。

林子平は、1738年、江戸で生まれた。1741年に父が同僚を殺傷し、浪人になったため叔父に預けられたが、姉が仙台藩6代藩主伊達宗村の側室となった縁で、兄が仙台藩士にあげられ、兄とともに仙台に移り住んだ。

 子平の身分は、無禄厄介というものだったが、彼はこれを逆用して自由に江戸や長崎に赴き見聞を広めた。

大槻玄沢宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友した。

また、北は松前から南は長崎まで全国を行脚した。

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(2)大学入試の「日本史」

拙ブログは、高校生もアクセスしている。

今回の内容は、大学入試の「日本史」に過去出題され、今後も出題される可能性が高い項目が、てんこ盛りである。

大学入試において、「日本史」が受験科目であるという読者の方は、心して学習して頂きたい。

などと書くと、突然、大学受験のブログに変身したのかと思われるかもしれないが、そうではない。

あくまで、前回からの「釣魚諸島」の話題の続きである。

大槻玄沢は、『解体新書』を著した杉田玄白前野良沢の弟子であり、江戸に芝蘭堂<しらんどう>という蘭学塾を開いた。

「芝蘭堂<しらんどう>なんて、知らんどう!」なんて言っている受験生、芝蘭堂<しらんどう>も大学入試に出ているのですよ。

↓JR一関駅前の大槻玄沢銅像。 2007年10月
大槻玄~1

1771年3月4日、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した。なお、この場に前述の桂川甫周がいたとする説もあるが、『蘭学事始』の記述からは、いなかったと考えるのが自然とされている。

 『蘭学事始』(らんがくことはじめ)は、1815年、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記である。

桂川甫周(ほしゅう)も、まれに大学入試に出るので、知らない生徒は補習を受けると良いかもしれない。

工藤平助は、『赤蝦夷風説考』の筆者であることも入試によく出てくる。

「赤蝦夷」とは、ロシア人を意味する当時の用語であった。

工藤平助は、若き日の林子平に影響を与えた人物であった。

(3)ロシア帝国の南下政策

 林子平が生きた時代は、ロシアの南下政策を中心とした北方危機の萌芽期であると同時に、蝦夷地への関心が一挙に高まった時代であった。

林子平は、ヨーロッパ諸国に対して危機感を抱くと同時にロシアの南下政策を知り、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』を出版し、翌々年には日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』を出版した。

 しかし幕府はいたずらに世間を惑わす行為としてこれを取り締まり、版木を没収して子平を罰した。

 このわずか4ヶ月後にロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋幸太夫を連れて根室に着き、61年後にペリーが浦賀に入港している。ちなみに渡辺崋山は子平死去の年に生まれている。

なお、「ロシアの南下政策なんか知らない」って言ってる生徒、「ロシアの南下政策」は、世界史と日本史、両方の入試に登場します。

今回の記事をお読みになって、読者の皆様は、「お前は授業中に、こんな親父ギャグを言っているのか?」とおっしゃるかもしれませんね。

はい、言っています。ギャグのオンパレードのような日もあります。

(4)『三国通覧図説』

『三国通覧図説』(さんごくつうらんずせつ)は、林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書<経済書>である。

 日本に隣接する三国である朝鮮・琉球・蝦夷地と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚(「三国通覧輿地路程全図」)からなる。1785年の刊。

そう、現在の沖縄県に該当するエリア全域と現在の北海道に該当するエリアのほとんどが、当時、まだ日本ではなかったのである。

林子平の著書『海国兵談』が、外国から日本を守るための軍備の必要性を説いた本であったため、松平定信に疎まれ、寛政の改革時に発禁・版木没収の処分となった。

 この時、同時に三国通覧図説も発禁処分とされている。

 しかし、この『三国通覧図説』は、その後桂川甫周によって長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。

今回のQのAは「松平定信」と言うことですね。

(5)フランス革命戦争と日本

欧州では、1792年4月20日にフランス革命軍がオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領オランダ(ネーデルラント連邦共和国)も戦場となった。

 このことは、オランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み">極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。

 するとロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるロシア帝国のアダム・ラクスマンが根室に来航した。

 なお、フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、英: French Revolutionary Wars, 仏: Guerres de la Révolution française)は、1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟(イギリスおよびオーストリアを中心としたヨーロッパ列強)との一連の戦争である。

 当初は革命への外国の干渉戦争であったが、1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。

ところで、「極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言なんて、日本史の教科書にも世界史の教科書にも出ていないぞ」と言っている高校生の皆さん、並びに、「そんな話、高校の歴史の授業で習わなかった。」とおっしゃるアダルトの皆さん、最初に千島を探検したのは、1643年のオランダのフリースと言う人物でした。

フリースは、フリースを着ていたか?

「NO」です。フリース(fleece)とは、ポリエチレンテレフタラート(PET、ポリエステルの一種)で作られた柔らかい起毛仕上げの繊維素材である。

 1979年に Malden Mills 社(en:Malden Mills)によって開発された。

 フリースの本来の意味は、羊一頭から刈り取られた一つながりの羊毛のことである。

ちなみに、化学繊維の中で、今最も生産されているのが、ポリエステルです。

最近、安いフリースが増えていますね。安い理由は、ポリエチレンテレフタラートを使っているペットボトルの消費とリサイクル率の増加とともに、ペットボトルを再生して作った製品が近年増えてきたからである。

そう、あなたが身に着けている○○で買った安物のフリース<おっと、勝手な想像で失礼なことを綴ってしまいました。お許し下さい。>も、元・ペットボトルかもしれない。でも、売り場で元・ペットボトルなんて絶対に書いていない。

都合が悪いことは書かない。権力の統制を受けているマスコミも同様である。

だから、マスコミの報道をすべて鵜呑みにしてはいけない。ただ、すべて信じるなとは言わない。

拙ブログの記事をここまですべてお読みの方は、良心的なマスコミ人がいることを理解なさったでしょう。

ただ、そのような人は、しばしば、権力側の所謂「いじめの対象」になりやすいことも、理解なさったでしょう。

ネットの世界では、「マスゴミ」なる言葉がかなり拡散しています。確かに全般的な状況はそうなのですが、十把一絡げに「マスゴミ」と決めつけると、ごく一部<ごく一部なのが悲しいのですが>の良心的なマスコミ人に失礼です。

数年前、筆者が住んでいるエリアで、ある新築マンションが販売された際、宣伝広告の中に、「駅からのすてきなけやき並木の道路を抜けて」と言うフレーズとともにその道路の写真が掲載されていた。

その広告だけ見て、現地に足を運ばない人は、その「すてき」とされる道路の両脇がまさか工場地帯であるなどとは、夢想だにしないだろう。

 さて、1793年、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の戦況は、フランス革命軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争は、欧州全域に波及する勢いで広がっていた。

 1793年6月20日、松平定信は、大黒屋光太夫とアダム・ラクスマン等一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示した。さらに、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また、漂流民大黒屋光太夫を引き取るよう指示した。同年6月30日、ラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。

 対外政策は緊迫した状況にあり、もしもオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性があり、あるいは千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。

 定信は、江戸湾などの海防強化を提案した。また、朝鮮通信使の接待の縮小などにも務めた。

その幕府の老中・松平定信は大黒屋光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが結局失脚してしまった。

 その後、大黒屋光太夫は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として前述の桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。

 桂川甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。

なお、『北槎聞略』(ほくさぶんりゃく)も、入試にたまに出る。

さて、林子平は、最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に、禁固刑(蟄居・ちっきょ)に処され、そのまま死去した。

 蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。

蟄居とは、現代で言えば、彼女が強いられた状況ですね。

アウンサンスーチーが、自宅軟禁から解放されて以降の動きは、多くの皆様におかれましては、マスコミの報道でご存知のことと拝察致します。

ミャンマーの「三角地帯」における”麻薬利権”についても、最近話題の”震災瓦礫利権”とともに知っておきたいですね。

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↑アウン・サン・スー・チー

(6)スー・チー氏、宣誓難色 憲法改正問題 初登院拒否を検討

【シンガポール=青木伸行】ミャンマーの野党・国民民主連盟(NLD)は、アウン・サン・スー・チー党首をはじめ、先の連邦議会補欠選挙で当選した43人の議会への初登院を、ボイコットする方向で検討している。スー・チー氏が主張する憲法改正問題が要因で、政権との間に深刻な摩擦が生じている。

 スー・チー氏は、軍の権力維持を保障している現行憲法の改正を、最大の目標に掲げてきた。だが、軍事政権下で制定された現行憲法では、新人議員は初登院と議員就任に際し、「憲法を守る」と宣誓することが義務づけられている。

 このためスー・チー氏は、首都ネピドーでの議会開会を23日に控え、登院と宣誓を拒んでいる。17日には幹部を首都に派遣し、宣誓の文言を「憲法を尊重する」に修正するよう政権側に申し入れた。だが、憲法裁判所が却下した。NLDは20日に幹部が協議し、テイン・セイン大統領に善処を求めることを決めた。

 NLD広報担当者のニャン・ウィン氏は「23日までに受け入れの回答が来れば、議会に出席する。さもなければ90%の確率で欠席する」としている。

 問題は大統領が24日まで訪日していることで、ニャン・ウィン氏も「23日までには間に合わないだろう」との見方を示している。大統領にしても、宣誓の文言を修正すれば、政権内の保守・強硬派や軍から反発が出る恐れがあり、難しい判断を迫られている。

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