836.1980年代、マスコミが不良をもてはやしたのはなぜか?

2017 秋 矢島舞美 1
↑画像 2017秋の風景14 矢島舞美

(1)報道の進化と劣化

 2017年11月18日の2本目です。この記事は1本目の続きです。1本目はこちらです。

 1本目の(9)で久米宏のニュースステーションのコンセプトは、「中学生でも分かるニュース」である事を紹介しました。「中学生でも分かるニュース」の登場は、報道の進化である一方、報道の劣化とも言えるのです。

 もちろん「日本のニュースを変えた男」といわれる久米宏の功績を称えた上での主張です。

 1本目の(8)で取り上げた2017年11月17日(金)のTBS系の「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」によれば、久米宏のニュースステーションの大成功を受けて、他局でも「中学生でも分かるニュース」が大幅に増えた。ニュースステーション登場以前の難しい言葉が続く「中学生では分からないニュース」は激減したといえる。

 ざっくり言えば「簡単なニュース」が激増し、「難しいニュース」は激減した。これは発想を変えれば、ニュースの劣化と言える。

(2)中学生と一口に言っても

 中学生と一口に言ってもニュースステーション登場の頃既に、中学生の学力差はかなりあった。「中学生でも分かるニュース」とされた「ニュースステーション」でも理解できない中学生はかなりいた。

 そうした所謂「落ちこぼれ」の中学生が各地の中学校で教師に対する校内暴力を起こしたり、校舎に対して破壊行為を起こしたりして、荒廃する中学校が当時とても多かった

 当時マスコミなどが所謂「ツッパリ」「ヤンキー」をもてはやす傾向があり、そうした状況に拍車をかけた。

スケ番刑事
↑画像 「ビーバップハイスクール」:仲村トオル、清水宏次朗、中山美穂、宮崎ますみ 「スケ番刑事」:斉藤由貴、南野陽子、浅香唯

★清水宏次朗は、元アイドル歌手『ビーバップハイスクール』で大ブレイク! 現在は失跡中?
https://middle-edge.jp/articles/1qMYb

 当時アイドルもツッパリイメージで売る例が多かった。上の写真に出ている中山美穂や近藤真彦や中森明菜や、後に極右議員になる三原順子などです。現在三原順子は足立康史と並んで政治家の劣化を象徴する人物の一人とされている。足立康史についてはこちら

(3)1980年代、マスコミが不良をもてはやしたのはなぜか?

 つまり1980年代、マスコミなどは不良をもてはやしたわけだ。なぜだろう? 今にして思えば、これは現在迄続く日本破壊工作・日本衰退工作の一環かもしれない。マスコミなどの不良もてはやし策により公教育全体はレベルダウンした。日本破壊・日本衰退に繋がる大きな変化だ。

 1960年代から1970年代の新左翼<過激派・偽左翼暴力集団>の台頭については、権力との繋がりが様々な研究で明らかになっているが、1980年代の不良の台頭と権力との繋がりについても様々な研究を深める必要がある。

 いずれにしてもこうした1980年代の動きの中で、忠生中学校事件の様な悲劇が起きた事を忘れてはならない。


(4)町田・忠生中学生徒刺傷事件<転載記事>

http://yabusaka.moo.jp/machida-kyoushi.htm

【事件概要】

 1983年2月15日、東京・町田市の市立忠生中学校で、英語担当教師Y(当時38歳)が3年生の生徒(当時15歳)を果物ナイフで刺し、ケガを負わせるという事件が起こった。Y教師は日頃から「ヒバクシャ」などと生徒達にからかわれていた。

【ポケットの中のナイフ】

 1983年2月15日午後、東京・町田市忠生の市立忠生中学校で、英語教師・Y(当時38歳)がナイフで生徒A(当時15歳)の右胸を刺すという事件が起こった。 刺されたAは全治10日の軽傷。

 Aは「センコー!」と怒鳴りながら校舎玄関に置いてあった金属製の靴の泥落とし用マットを振りあげて、Yに襲いかかった。側には別の生徒B(当時15歳)もいた。Yは今にもマットで殴られそうな時、上着のポケットに入れていたナイフで刺した。

 犯行後、Yは元教師でクリスチャンである父親がいる実家へ車で向かった。実家では父親から説得され、3時間後に町田市内の自宅へ付き添われて帰ったところを逮捕された。

 町田署の留置場でのYは興奮状態、その反面驚くほど口数が少なかった。所持していたナイフについては「普段果物の皮をむくのに学校で使っていたが、不要になったので家に持ち帰ろうとした」と主張した。

 町田市はベッドタウンとして人口が急増中で、当時都内の中学校の1校あたりの生徒数は平均720人だったのに対して生徒数1449人と、かなりのマンモス校であった。1学年11クラスほどある。

 当時は校内暴力が問題となっていた時期で、そのなかでも忠生中学は暴力学校として有名だった。前年11月、文化祭の後片付けをしていた教師が、3年生の生徒に「ゴミを捨てなさい」と言って、殴られるということが起こっている。その10日後には3年生の生徒が廊下で爆竹をやり、駆けつけた教師が注意すると殴られて、右手の指を骨折させられていた。これだけではなく、校内の備品も荒らされ、トイレなどは間仕切り壁が破壊されて完全になくなっている状態だった。

 現場にいたBは以前に職員室に乱入し、Yを暴行、10日間のケガを負わせていた。ここまでのケガを負う前に、職員室には暴行を止めようとする教師らはいなかった。Aは1回、Bは自転車窃盗や校内暴力など3回の補導歴がある。

 町田署は逮捕理由について、次のような談話を発表している。「Y教諭の行為は正当防衛に近いものだったが、本人が思いつめる性格なので、保護の意味もあって逮捕に踏み切った」

 事件後、忠生中学の中里校長は・教師がナイフを手にしたこと ・生徒をそのままにして父親のところへ逃げたことについて「許されない」とした。

 19日、忠生中学にオートバイ相乗りで15人の少年たちが訪れた。卒業生だった。「俺たちの時は、集団で先生に乱暴するような卑怯な真似はしなかった。在校生に説教に来た。根性をたたき直してやる!」

 高校生や社会人となっているその卒業生らを、教師が慌てて止め、その場は解散となった。

【本当に怖いものは】

 Yは1944年生まれ。神奈川大学入学後に桜美林大学に編入している。横浜市立瀬谷中学校に赴任したのをはじめとして、横浜市立万騎中学校に転任、1978年に忠生中学に赴任してきた。

 1945年8月、1歳にもなっていないYは広島にいた。体が疲れやすく、動作が緩慢であったのは被爆のためだったが、生徒たちはYを「原爆病」「ゲンバク」「ヒバクシャ」などとからかった。そんな言葉を浴びせかけられると、Yはビクっと反応し、生徒らが言うにはその反応が面白くてからかっていたらしい。
 
 暴力吹き荒れる当時の中学校でも、体格は良いけれどもおとなしそうで体の弱いYが、教師いじめの標的になりつつあった。Aは校舎でYと顔を合わすと、雑巾をぶつけるなどしていた。

 事件のわずか30分前、Yは顧問を勤める「海外文通クラブ」の部室から職員室に戻ろうとしたところ、1階渡り廊下でBから体当たりをされ、怯えて逃げた。

 1年担当のYと、3年生のBは本来接点がない。Bは元々「海外文通クラブ」の部員だった。楽な部活と思ってこのクラブを選んだが、英語が嫌いなBはクラブ活動の時間中、特に何もしなかった。見かねたYが「何もしないなら、辞めなさい」と注意して、Bは別の部に移っていった。事件前年5月頃のことだが、Bはこの時のことを根に持っていたのかもしれない。
 
 Yが職員室でBから暴行を受けたことは先に述べたが、この暴行もクラブに起因するものだった。この日、クラブ活動室に辞めたはずのBがいた。出席をとる時、YはBを無視するわけにはいかないとBの名前も呼んでいる。自分の名を呼ばれたことを怒ったBが、職員室までYを追いかけまわし、女性教師のかげに隠れるYを引っ張り出して暴行を加えたのである
 
 話を戻して2月15日。Bから逃げるYは階段のところでも殴りかかられ、蹴りを入れられた。その時、Aがあらわれ、身の危険を感じて職員室に逃げ込んでいる。Yは「○○先生(Bの担任)、いませんか」と言ったが、その返事をした人はいなかった。これはYの職場での孤立、また同僚の無関心、傍観を示す光景である。逮捕後、Yは「他の先生がたは助けてくれなかった」と供述している。 

 こうなると、もはや逃げるしかないとYは考える。帰宅届けを出し、いつもより1時間早く家に帰ろうとした。しかし玄関には先程の2人が待ち構えていた。

 刺されたAよりは、補導歴3回のBの方が不良としては格が上だった。Bは一匹狼タイプで、不良グループのリーダー格はまた別にいたが、Aが玄関のマットを振り上げたのは、Bにいいところを見せようとする思惑もはたらいたのだろう。そして刺された。

 この現場を見ていた生徒によると、Yは「おまえらがそんなことをするからだ!」「おまえらがやるから、おれもやった!」と叫び、周囲の生徒を睨みつけた後、駐車場の方へ逃げ出した。

 2月22日、刺された側のA、そしてBを含む生徒17名は、町田署から東京地検八王子支部に書類送検された。この17名は1月にも傷害事件を起こしていた。

 同じ日、YはA宅と教育長宅に謝罪の電話をいれている。後日、Aは刺されたことをうらむどころか、「先生には悪かった」というようなことを言った。

 2月27日、Y釈放される。

 3月25日、都教育委員会はYを論旨退職、校長を戒告処分とした。

 事件の翌月、忠生中学ではさらに事件が起こっている。まず4日、2年生の女子生徒6名が同級生の女子生徒を裏の林に連れて行き、グループを抜けようとしているのを咎めて、暴行を加えた。

 さらに11日、2年生の男子生徒4名が1年生1人に「あいさつが悪い」と言いがかりをつけて暴行。
 
 15日には3年の女子生徒7名が「なまいきだ」と言って、4日に起こった暴行被害生徒を再び暴行した。

 刺傷事件で逮捕された時、警察で「なぜ刺したのか」と聞かれて、Yは次のようにもらしたという。

 なぜって、怖いからです。学校は本当に怖いところです。

(5)followers1名減

 「833.昔の高速道路はカーブが多かった真の理由は?」の「(3)Feedly」に「お陰様で現在は53 followersになりました。」と記載した。833はこちら。その後followers1名減となった。去った方が安保隆さんや大摩邇(おおまに)のgenkimaru1さんだったら悲しいな。

(6)1985年10月

 高天原山事変から約二ヶ月が経った1985年10月、私は東京都府中市から忠生中学校から数キロの距離に位置する神奈川県相模原市鵜野森に転居した。自宅アパートから徒歩圏内の小田急やJRの町田駅周辺には夜になるとよく不良高校生がたむろし煙草を吸ったりしていた。夜回り先生として有名になった水谷修氏は、そうした町田駅周辺を徘徊する子どもたちに声をかけて歩いた。

452.夜回り先生がPTA主催の講演会を数多くこなすのはなぜか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-650.html

水谷修
↑画像 「夜回り先生」水谷修です。今日は公明党の応援に、大阪へまいりました。
452より転載

↓動画 矢島舞美
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Comment

猫山 #-

高校時代の私の疑問が解けた思いです。

高校時代にふっと世間の幼稚化に気付きました。
周りに打ち明けましたら、考え過ぎと返されました。

私が小学校に入った年は1981年でした。
近藤真彦や中森明菜がブームでした。
あとは横浜銀蝿になめねこグッズ。
中学年くらいには、積み木くずしや不良少女と呼ばれてと言うドラマが流行りました。
恥ずかしながら、私はそのドラマの影響を受けた一時期がありました。
通学路ですれ違う中学生も日に日にツッパリの出で立ちに変わっていたので、これが流行りだと思っていました。

しかし五年生の時に赴任して来た男性教諭が担任になり、諭されて気付きました。
勿論、私の親も油を絞られました。
目を覚ました自分が知ったのは自分が通う予定の中学校が荒れていたことでした。
リンチ、教師への暴力、自殺未遂に追い込む程のいじめ…などなど
私達の入学の年から風紀が厳しくなり少しでも校則に反すると教師から負傷を負わされる程の体罰もありました。
それでも三年間、文化祭や体育祭には暴走族に入った先輩がお礼参りと称してバイクで乗り込み、警察が来るのが恒例になっていました。
そんな中学時代を経て高校生になりました。
ヤンキー率が非常に高かったこともあり、骨抜きな感覚を覚えました。

当時は中学時代が厳し過ぎたから?と思っていました。
福田様のブログでマスコミが意図して作ったことを教えて頂きまして、妙に納得をしてしまいました。

2017/11/19 (Sun) 16:21 | URL | 編集 | 返信
福田元昭 #-

Re: タイトルなし

猫山さん、コメント、ありがとうございます。

> 高校時代の私の疑問が解けた思いです。

何よりですね

> 高校時代にふっと世間の幼稚化に気付きました。

高校時代に目覚めましたね。その後世間は更に幼稚化しました

> 私が小学校に入った年は1981年でした。

第2次ベビーブーム世代<団塊ジュニア>ですね

> 福田様のブログでマスコミが意図して作ったことを教えて頂きまして、妙に納得をしてしまいました。

マスコミは支配層の手先ですから、支配層が意図して不良ブームをマスコミなどにつくらせたと考えています。いずれ記事にしようと思っていますが、支配層が不良ブームをつくらせた理由は、第2次ベビーブーム世代<団塊ジュニア>が左傾化しない様にする為ではないかと考えています。

第一次ベビーブーム<団塊の世代>は左傾化した人々が多かったので、第2次ベビーブーム世代<団塊ジュニア>が左傾化しない様にする為には、「ツッパリ」「ヤンキー」「不良」をマスコミなどを通じて格好良いと思わせ、社会に不満を持つ若者が左翼に向かわず、「ツッパリ」「ヤンキー」「不良」ななる事によってガス抜きを図ったのではないかと考えています。

> 福田様

福田さんで結構です

2017/11/20 (Mon) 04:25 | URL | 編集 | 返信
 #

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2017/11/20 (Mon) 12:55 |  | 編集 | 返信
福田元昭 #-

Re: タイトルなし

>確か、80年代、当時、中曽根総理と、横浜銀蝿の対談もありましたね。当時、私は、小学生だったので、繊細は覚えてませんが、調べてみると、横浜銀蝿は覚せい剤撲滅のイメージキャラクターだったらしいですね。その後、メンバーの翔が覚せい剤で捕まったらしいですね。当時、少年ジャンプを読んでいて、平松伸二さんの「ブラック・エンジェルズ」で、そのことを比喩してました。
漫画のシーンで、中曽根総理らしき人と、横浜銀蝿のような不良がテレビで対談をしていて、中曽根らしき人が「君たちは、学校では、とても良い子なんだろうね~」とニヤついていた描写がありました。

どなたか判りませんが、コメント、ありがとうございます。こうした差し障りのないコメントは、公開の形にして下さると助かります。

2017/11/20 (Mon) 21:47 | URL | 編集 | 返信

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