798.長野県南佐久郡南相木村の「館報南相木」に掲載されている123便の記事は、2機目の123便の存在を示しているのか?

↑画像 2017鉄道シリーズ22 愛知県安城市三河安城町一丁目 東海旅客鉄道(JR東海) 東海道新幹線/東海道本線 三河安城駅
(1)口封じの歴史・高天原山事変187 小平尚典<こひらなおのり>カメラマン

↑画像 長野県南佐久郡南相木村の「館報南相木」 1985年9月30日号 リサイズしないと掲載できなかった為、形が歪になってしまいました。申し訳ありません。
南相木村公民館発行の「館報南相木1985年9月30日号」は佐久市の小平印刷が印刷した。小平印刷の「小平」をどの様に発音するのかは判らないが、「465.川上慶子さんは避難の為に渡米したのではないか?」の(13)で取り上げた小平尚典<こひらなおのり>カメラマンの小平と同じ字です。偶然の一致とは言えない感じがします。465はこちら。
小平尚典カメラマンは「524分の4」という自身の写真集に、上野村に落ちていたソ連機の機体を掲載した為、123便事件の首謀者どもに命を狙われ米国に10年程度避難していた。
https://www.amazon.co.jp/4-524-%E5%B0%8F%E5%B9%B3-%E5%B0%9A%E5%85%B8/dp/4103816015
「564.JAL123便を米軍が撃墜したと言う説は真実か?」の「(2)口封じの歴史・高天原山事変編47 高天原山事変は、ソ連と日本国内のソ連と結びついた勢力による日本攻撃!」に書いた通り、小平尚典カメラマンが撮影した写真のソ連軍機と思われる機体は、311機製造されたTu-22とTu-95ベアと推測されている。564はこちら。なお564は拍手といいねを合わせて78の高い評価を得ています。ありがとうございます。
(2)口封じの歴史・高天原山事変188 習志野空挺団の小林パイロットもたぶんご存知ない123便の不時着
564の(2)に「高天原山事変で123便にとどめを刺したのは、千葉県にある陸上自衛隊第1空挺団<習志野空挺団>所属の小林パイロットです!」と書きました。今年2017年の123便調査チームの調査により2機の123便とも、墜落ではなく不時着だった事が判明しました。おそらく習志野空挺団の小林パイロットもそれをご存知ないと推測されます。
(3)口封じの歴史・高天原山事変189 「館報南相木1985年9月30日号」の右下の文章の真偽
「館報南相木1985年9月30日号」の右下に次の記述があります。「事故現場には朝3時に宿舎を発ち、奥三川から歩いて2時間で着き一夜野営して作業にあたった。帰隊のため校庭に整列した隊員を前に、ねぎらいのあいさつに立った村長と見送りの役場職員」
この記述は真実でしょうか? 「2時間で着き」と書いてありますが、どこに着いたのでしょうか? 「事故現場には」と書いてありますから、1機目の不時着場所でしょうか。実は1機目の不時着場所は奥三川から歩いて2時間では着きません。
「760.123便は時空を超えた!!!<123便の真実・最新1>」の「(8)口封じの歴史・高天原山事変110 1985年8月13日朝6時のNHKニュース」に挿入した次の画像を見ると、それが理解できます。760はこちら。

↑画像 2機目の123便の翼があったおおよその位置と、1機目の123便の翼があったおおよその位置。右上が1機目で、左下が2機目。
自衛隊員の出発地の奥三川はスマホの画面の地図の湖<南相木ダム>の西側です。2機目の不時着場所の方が近い事が判ります。
(4)口封じの歴史・高天原山事変190 奥三川からの自衛隊は2機目の不時着場所に着いたのではないか?
奥三川からの自衛隊は2機目の不時着場所に着いたと考えれば辻褄が合います。
123便事件の証言として有名な「M氏の証言」を拙ブログでは、「467.福島原発周辺だけ濃霧が続いているのはなぜか?」の(6)などで取り上げました。467はこちら。「760.123便は時空を超えた!!!<123便の真実・最新1>」の「(5)口封じの歴史・高天原山事変107 2機目の123便」に書いた通り、M氏が着いた場所も2機目の不時着場所と考えられます。760はこちら。
(5)口封じの歴史・高天原山事変191 「事故現場には朝3時に宿舎を発ち」という衝撃の記述!
実は「館報南相木1985年9月30日号」の「事故現場には朝3時に宿舎を発ち」という記述は衝撃の記述なのです!!! 1985年8月13日午前3時の段階では、123便の墜落現場<不時着現場>は公式には発見されていなかったのです!!!
「564.JAL123便を米軍が撃墜したと言う説は真実か?」の「(5)口封じの歴史・高天原山事変編50 1985年8月12日に向けて」に書いた通り、M氏の証言では、13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場<不時着現場>に、自衛隊員が既に100名程度来ていたという。564はこちら。
M氏の証言によれば、自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していたという。また4~50名の生存者の声が聴こえたが、1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなったという。
(6)口封じの歴史・高天原山事変192 2機目の123便の乗客・乗員を殺害したのは陸上自衛隊宇都宮駐屯地 第十二特科連隊(当時)
「760.123便は時空を超えた!!!<123便の真実・最新1>」の「(5)口封じの歴史・高天原山事変107 2機目の123便」に書いた通り、ソ連と連動した陸上自衛隊宇都宮駐屯地・第十二特科連隊(当時)の隊員670名が、2機目の123便の乗客・乗員全員を虐殺したのです。760はこちら。
(1)の冒頭の「館報南相木1985年9月30日号」の左横の文章にご注目下さい。「宇都宮第12特科連隊670名」の文字が見えますね。
(7)口封じの歴史・高天原山事変193 「館報南相木1985年9月30日号」の123便のルート図

↑画像 「館報南相木1985年9月30日号」の123便のルート図
760などに書いた通り、扇平山は長野県南佐久郡川上村にある山です。ところが「館報南相木1985年9月30日号」の123便のルート図では、扇平山が群馬県多野郡上野村の中に描かれています。760はこちら。
地元の方が作っている広報誌の地図ですから、間違えたとは考えにくく、何かの意図があってわざと上野村の中に入れたのではないでしょうか。760の(5)に書いた通り、2機目の123便は、長野県南佐久郡南相木村の住民に目撃されたのです。
扇平山近くに123便が落ちていった事を知っている住民もいたと推測できます。上野村からのテレビ報道とのギャップから、その住民は123便が2機あったという信じがたい衝撃の事実を知る事になりました。
それを後世にさりげなく伝える為に、こうした地図を入れたのではないでしょうか。上野村に落ちたという世間の常識と折り合いをつける為に扇平山を上野村に入れたのではないでしょうか。つまり長野県南佐久郡南相木村の「館報南相木」に掲載されている123便の記事は、2機目の123便の存在を示しているのではないか。
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