760.123便は時空を超えた!!!<123便の真実・最新1>

↑画像 2017水着シリーズ8 2017・夏・海25 矢島舞美
(1)戦艦がワープし、人が消える 恐怖の「フィラデルフィア実験」
1943年10月28日、アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィアにて、海軍が極秘実験を行った。強力な磁場発生装置を用いて駆逐艦エルドリッジを敵軍のレーダーに関知されないようにするというものだったのだが、装置によって発生した巨大な磁場に包まれたエルドリッジは、その場からかき消えてしまったのである。そして、およそ2500キロは離れたバージニア州ノーフォーク沖に出現。再び姿を消し、フィラデルフィアに戻ってきたというのである。
強力な磁場が空間を歪ませ、テレポートさせてしまったのだろうか? だが、エルドリッジに入った実験関係者の前に広がっていたのは恐ろしい光景であった。焼け焦げていたり、甲板や壁に体が埋まって船体と融合してしまっている者。中にはすっかり姿を消してしまった者も存在していたという。数少ない生存者は発狂しているものが殆どだった…。
http://npn.co.jp/article/detail/67796718/
https://youtu.be/multZ4lVyf8
↑動画 フィラデルフィア・エクスペリメント 視聴回数 38,384 回
大エネルギーの高周波を使用して、一気に消磁する・・・。これが、フィラデルフィア実験で行われた消磁実験だったのです。
当時の高周波の権威といえば、交流電流の発明家でも有名なニコラ・テスラです。実はテスラは、当時、燃焼することなく電気を取り出す方法も開発していました。それはフリーエネルギーだったのです。
しかし、テスラがその研究を完成させる前に、なぜか融資をしていた銀行家のJPモルガンは手を引いたのです。JPモルガンといえば、世界財閥でもあり、タイタニックを意図的に沈没させた張本人です。
当時、JPモルガンは、電線に使われる「銅」を独占していました。彼はテスラの発明により、電線がなくても送電できてしまうことに途中で気づきます。テスラはその後、研究室を焼かれ、研究を妨害されることになります。なぜなら、銅が必要なくなると、JPモルガンは「銅」の利権を消失してしまうからです。
この世でフリーエネルギーなどを普及させようとすると、それを断固として許さない人間が存在するのです。それが、裏の世界で暗躍するユダヤ財閥です。
話をフィラデルフィア実験に戻します。軍は、かねてからテスラに注目していました。なぜなら、テスラの得意分野でもある高周波を兵器として、利用できないものかと考えていたからです。
高周波の高い電磁波は人体に有害で、強力な兵器になりうる可能性を秘めていたのです。だからフィラデルフィア実験において、テスラは責任者を任せられていたのです。
特に軍が期待をしていたのは「テスラ・コイル」だでした。「テスラ・コイル」とは、どういうものなのでしょうか? 私たちが日常使用するものに電子レンジがあります。あの電子レンジこそ「テスラ・コイル」が元となって発明されたものなのです。
基本的に発電機と変圧器を組み合わせたもので、専門的に言えば「高電圧高周波振動電流発生装置」のことです。ファラデルフィア実験で使用されたのが、この「テスラ・コイル」というわけです。
1943年10月28日に行われたとされるフィラデルフィア実験は、実際には8月12日に行われていたのです。
この実験の真相は、どのようなものだったのか? 全ての準備が整い、エルドリッジ号の艦長がブリッジからメインスイッチを入れました。その瞬間、不気味な振動とともに、テスラコイルから異様な青白い光がオーロラのように入り乱れ、段々と大きくなり、やがてドーム状にエルドリッジ号の船体を包みこみます。すると今度は、シュルシュルッという音が響き渡り、船内の至る所からパチパチとスパークが発生、閃光が走ったのです。驚くことにエルドリッジ号は、大勢の軍人が見守る中、忽然と姿を消したのです。それは、霞のように空中に消えたとされています。
一方、エルドリッジ号の船内では、次々に異様な現象が起こっていました。青白い光が船体を包みこむと、それまで頭上に広がっていた青空は一瞬にして消えたのです。船内に搬入していた実験用の機材は高熱で溶け、被害は突出している部分ほど激しかったと言われています。乗組員はパニック状態。
ですが、本当の悲劇はここからでした。乗組員の体が勝手に空中に高く舞い上がると、そのまま高熱の炎で包み込まれたのです。この異常事態に乗組員たちは絶叫。口や目などから炎が噴出し、人体を内部から焼きつくし、わずか数分で灰燼と化してしまったのです。
叫び声を上げて燃え上がる乗組員を目の当たりとした別の乗組員は、恐怖で半狂乱に陥ったといいます。その光景は地獄絵そのものでした。乗組員の多くは、原因不明の心拍停止や神経麻痺を引き起こし、痙攣しながらのたうち回っていたというのです。
こうした光景が広がるなか、何よりも異様だったのが、甲板や壁のあちこちに突き刺さるように人間の体が埋まっていたことです。中には体のほんの一部だけが船体と合体しただけで済み、まだ生きている者もいたそうです。人体(有機物)と鉄できた船体(無機物)が、合体するという恐ろしい光景を前に、屈強な兵士たちも貧血や失神、吐き気に襲われる者もいたというのです。

↑画像 船体と融合した船員のイメージ
私たちは、現代の常識の中で生きているため、このような話は俄かには信じられないかもしれません。しかし、この実験のテレポート現象は事実であったことが判明しているのです。ただ、それが一部の権力者や米軍に隠蔽されているだけなのです。なぜなら、そのことが公になると連中にとっては不都合だからです。
フィラデルフィアにて消滅したエルドリッジ号は、同時刻、ノーフォークの軍港に姿を現していました。移動した時間は、ほぼ瞬時といいます。再びエルドリッジ号がフィラデルフィアに戻ってきた時間を考えれば、ノーフォーク軍港にとどまっていた時間は数分程度らしいのですが、実際にノーフォーク軍港に姿を現していた時間は、なんと6時間にも及んでいたのです。
ノーフォーク軍港にいた人間が、エルドリッジ号を数秒にわたって見たというなら見間違いや幻覚とも言えるでしょう。ですが、6時間もエルドリッジ号を何人もの軍人が目的していたのですから見間違いではないのです。しかし、ノーフォーク軍港には6時間も姿を現したのにも関わらず、なぜフィラデルフィアには姿を消してから数分後には戻ってきたのでしょうか? この時間の差は一体、どういうことなのでしょうか?
やはりこの世には、私たちの世界の時空とは、別の世界の時空が存在することを意味しているのではないでしょうか。それにしても、なぜノーフォーク軍港に出現したのでしょうか? それは未だに不明なままとなっているそうです。
このテレポート現象は、誰もが予想もしてなかった現象でした・・・。1度ならまだしも、2度に渡って320キロもの距離を瞬時に移動したのは、紛れもないテレポート現象です。
軍は、テスラコイルによる消磁実験を国家のトップシークレットに指定し、第二次世界大戦の厳戒態勢の中、極秘裏に研究を進めていたのです。エルドリッジ号による消磁実験を行うことはありませんでしたが、
その一方で、テスラコイルそのものの分析が行われ、 高周波を応用した兵器を開発。それが、アメリカが行ったとされる原爆開発計画…マンハッタン・プロジェクトを遥かに凌ぐ、米国史上最大の極秘プロジェクトへと発展するのですが、そのプロセスにおいて、米軍はとてつもない事実を発見したのです。
http://sekainoura.net/firaderufia-sinsou.html
(2)この時間の差は一体、どういうことなのでしょうか?
(1)の最後の方に「この時間の差は一体、どういうことなのでしょうか?」と言う問いかけが書いてあります。この時間の差は、エルドリッジ号が一時的に二つに分かれた事を意味します。ノンフォーク軍港のエルドリッジ号は6時間で消滅してしまいましたが。
(3)口封じの歴史・高天原山事変104 123便は、離陸後3分してから異変が生じた。
1985年8月12日18:12、JAL123便は、羽田空港ランウエイ15から離陸した。123便の運輸省航空事故調査委員会報告書305~306ページによれば、18:15分10秒過ぎに、LOC2が、18:15分20秒過ぎに、LOC1が、それぞれ、おかしくなっています。これは123便に対して18:15分に妨害が発生したことを示しています。
生存者の一人・落合由美さんの証言によれば、そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がした。「パーンという音」はワープ時特有の音響だと言う。かなり大きい音がしたのは、18時15分だと推測される。123便は、離陸後3分してから異変が生じた。アメリカのニューヨークでは、「離陸3分後問題発生」と報道した。日本の報道では、123便に異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分とされている。
http://bakusai.com/thr_res_show/acode=5/bid=525/tid=387328/rid=309520651/word=%83X%83%60%83%85%83%8F%81%5B%83f%83X/

↑画像 1985年8月12日 日航ジャンボ123便飛行ルート
(4)口封じの歴史・高天原山事変105 日航ジャンボ123便はワープした
日航ジャンボ123便は18時15分に、時空の裂け目からワープした。神奈川県横須賀市にある在日アメリカ海軍の基地である横須賀海軍施設<米軍横須賀基地>の目の前で、米国航空機業界最大の稼ぎ頭であったジャンボ機をワープさせ、アメリカに対し優位に立とうとすることを目的として、ソ連と日本のクーデター勢力が共同で発生させたワープだと言う。
クーデター勢力は本物の昭和天皇を乗せた日航ジャンボ123便をアメリカ軍に見せつける様にワープさせたと言う。アメリカ軍がフィラデルフィア実験を実施した8月12日に!
749.日航ジャンボ123便には昭和天皇がご搭乗されている
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-995.html
JAL123便がワープしたとされる8月12日18時15分と言えば、関東平野はまだ明るい。JAL123便の座席中央部分の最後部から5番目に座っていたとされる写真家の小川哲氏(当時41歳)が撮影した写真の中に、車窓が明るい時間帯にも関わらず、機外の様子が暗い写真がある。 ワープ飛行中の写真ではないかと指摘されている。
(5)口封じの歴史・高天原山事変106 川上慶子さんが二人になった
1943年8月12日に行われたフィラデルフィア実験で、エルドリッジ号が二つに分かれたのと同様に、日航ジャンボ123便は乗客・乗員とともに二つになった。つまり川上慶子さんが二人になった。生存者となった1機目の本来の川上慶子さんは、第2の自分が誕生した事を認識していないと考えられる。
ニューヨークの123便報道によれば、18時15分の機体の異常で、思い通りの操縦が不可能になった1機目の123便に対して、18:16:22に「日航123便、SIDコースの2マイルより右よりだ通常の航法に戻せ。」との指示が入った。更に18:17:15に「日航123便、・・・レーダー誘導を待て。」との指示が入った。
http://bakusai.com/thr_res_show/acode=5/bid=525/tid=387328/rid=309520651/word=%83X%83%60%83%85%83%8F%81%5B%83f%83X/
18:20頃、1機目の123便のベルトサインが消灯した。スチュワーデスが通常のサービスを開始した。サマーキャンペンで子供達にミッキーマウスの人形を配っていた。中央最後部60Dでは、川上慶子さんがは妹の咲子さんに配られた人形を気に入り、「私のもらった人形より咲子の方がいい」と言ったら、母の和子さんに「自分で取りかえてもらいなさい」とたしなめられた。
http://8005.teacup.com/suzan/bbs/1900
やがて機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-entry-8.html
(5)口封じの歴史・高天原山事変107 2機目の123便
1985年8月12日18時15分に誕生した2機目の123便は、長野県南佐久郡南相木村栗生地区中島地区の住民に目撃された。「飛行機の後から、流れ星の様なものが<飛行機の>近くを飛んで行った」と南相木村中島の3人の住民は証言した。後日、目撃者達に口止め料約4000万円支払われた。その為、この地区は後年高価な住宅が林立する事になる。
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/c320a15a3b182dd2d2e435904d40acb7
2機目の123便は、長野県南佐久郡北相木村と南相木村とにまたがる山である標高2,112メートルの御座山<おぐらさん>上空を飛行した。 2機目の123便は、長野県南佐久郡北相木村の北相木村立北相木小学校付近で開催予定の村の夏祭り準備をしていた約20人に目撃された。目撃談は翌日の朝日新聞で報道された。高天原山事変後、自衛隊や一部マスコミによって、この御座山<おぐらさん>が墜落現場とされた。
↑地図 長野県南佐久郡北相木村&南相木村 御座山<おぐらさん>
1985年8月13日付けの朝日新聞朝刊に、「1985年8月12日午後6時15分から20分の間に、ツルのマークが入った飛行機が、御座山<おぐらさん>上空100~200メートルを群馬県上野村に向かって飛んでいる。」という目撃談が掲載された。これまでこの目撃談は信憑性がないとされてきましたが、実は2機目の123便の目撃談として信憑性が高い。

↑画像 放射能汚染されている南相木ダムと八ヶ岳連邦と御座山。写真右のピークが御座山(おぐらやま)で2112mあります。
http://ananda2014.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-1989.html
「467.福島原発周辺だけ濃霧が続いているのはなぜか?」の(6)などで取り上げた「M氏の証言」は、2機目の123便の現場の目撃談なのではないかという説が強まっています。467はこちら。
ワープした際派生した2機目の123便ですが、長野県南佐久郡川上村の扇平山近くに無傷で着陸し、全員無傷だったまではよかったのですが、その後、ソ連と連動した自衛隊<陸上自衛隊宇都宮駐屯地 第十二特科連隊(当時)>が攻撃を行ったという状況です。拙ブログによくコメントを下さる123氏によれば、南相木小学校に集結した宇都宮第12特科連隊670名が生存者全員を虐殺したのです。この「760.123便は時空を超えた!!!」は、123氏の強力な協力のもとに書かれています。
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/ab057ccf3db03bc18029011d97253231
↑地図 長野県南佐久郡川上村 扇平山
(6)口封じの歴史・高天原山事変108 日本航空(JAL123便)と全日空(ANA37便)
★「CAの声が震えていた」 全日空機が与圧系統の不具合で緊急着陸 けが人なし 8/12(土) 20:25配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170812-00010003-bfj-soci
2017年8月12日、羽田空港発伊丹空港行きの全日空37便が午後6時に離陸後、羽田空港に引き返し、緊急着陸するトラブルがあった。【BuzzFeed Japan / 播磨谷拓巳】
乗っていた客によれば、離陸時にエンジンがある後方部から爆発音のようなものが聞こえたとのこと。午後6時の離陸から約15分後に緊急降下のアナウンスが流れ、酸素マスクが降りてきた。具体的な説明はなく、機長からは「与圧系のトラブル」と説明があったそう。
客は「一番怖かったのが、CAのアナウンスのときの声が震えていたことです」と話す。全日空の担当者によれば「与圧系統の不具合の可能性があったため、機長の判断で羽田空港に引き返した。
ネットでは「1985年のJAL123便と2017年のANA37便の共通点が偶然にしては多すぎる」と話題になっている。
(7)口封じの歴史・高天原山事変109 世界的な事件は偶然に起こることは決してない
「世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと‥‥。私は、あなたに賭けてもよい。」と米国第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトは述べたとされる。
そう、2017年8月12日の全日空(ANA37便)のトラブルは、123便事故と同様に偶然ではなく、そうなるように前もって仕組まれていたと考えられる。
「(真)日本の黒い霧」に書いてある通り、全日空(ANA37便)のトラブルの首謀者は、「123便は無傷で着陸し、着陸時、乗客乗員は全員無事であった。」と伝えたかったのです。
http://adoi.hatenablog.com/entry/2017/08/14/182016
1機目の123便も2機目の123便も、着陸時、乗客乗員は全員無事であった可能性が高い。749の猫山さんのコメントがそれを物語っています。749はこちら。そのコメントの最大のPOINTは、「実はあの事故、機長さんが敏腕で一度は9割以上の人、いやもしかすると全員助かってた。なんでも、機長さんがね山の尾根の樹々をクッションのようにして不時着させたんだ。だが、何者かに飛行機に火を付けられたんだ。」の部分です。
なお日航機墜落事故から20年の2005年8月12日には、福岡空港を離陸したJALのDC-10がエンジンから火を噴いて緊急着陸した。こちらも123便と絡めた何かの意味を持つ仕組まれた出来事だろう。
http://blog.goo.ne.jp/gauche7/e/f7c6774218803ee728a08a67bcd368fb/?ymd=200508&st=0
(8)口封じの歴史・高天原山事変110 1985年8月13日朝6時のNHKニュース
1985年8月13日朝6時のNHK総合テレビのニュースは、さりげなく日航ジャンボ123便が二つになった事を伝えていた。朝6時の冒頭のヘリコプターからの生中継で長野県南佐久郡川上村の扇平山近くの2機目の123便の翼を映した。

↑画像 1985年8月13日朝6時の冒頭のヘリコプターからの生中継で2機目の123便の翼があったおおよその位置 長野県南佐久郡川上村 スマホの地図画面にJALと書いてあるガムテープの部分が、2機目の123便の翼があったおおよその位置。
朝6時2分頃にヘリは、群馬県多野郡上野村の1機目の123便の翼を映した。

↑画像 1985年8月13日朝6時の冒頭のヘリコプターからの生中継で1機目の123便の翼があったおおよその位置 群馬県多野郡上野村 スマホの地図画面にJALと書いてあるガムテープの部分が、1機目の123便の翼があったおおよその位置。

↑画像 2機目の123便の翼があったおおよその位置と、1機目の123便の翼があったおおよその位置。右上が1機目で、左下が2機目。
事前に123便が二つに分かれた。123便のCOPYが登場した事を知らないで、レポーターやヘリのパイロットが現地へ行ったとしたら、さぞかし驚愕した事だろう。123便の翼が二カ所にあったのだから。
その日の朝7時のニュースでは、そうした中継はなかった。もしかしたら中継したレポーターやヘリのパイロットは殺害されているのかもしれない。衝撃の事実を伝えた長谷川浩が殺害された様に。
683.NHKの堕落のきっかけは長谷川浩氏の不審死ではないか?
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-919.html
読者の皆様の中で、当日のこの放送をご覧になったりVIDEOに録画した方がいらっしゃればコメント欄へご一報下さい。
(9)口封じの歴史・高天原山事変111 123便は時空を超えた!!!
実は御巣鷹山エリアで1機目の123便が核攻撃を受ける際、天界からの助けで更に3機目が1機目から分離した!!! 3機目は異次元に行き、2020年8月12日に大阪伊丹空港に現れると言う。
2017年8月12日から2020年の8月12日までに123便事件の真実が解明ができない場合、人類全体に災厄が及ぶと言う。
http://boosuka-asuka.hatenablog.com/entry/2017/06/14/173418
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/ab057ccf3db03bc18029011d97253231
(10)口封じの歴史・高天原山事変112 らららサンビーチ
実はもう一つ説があります。静岡県沼津市西浦平沢にある「らららサンビーチ」に、2020年8月12日に3機目の123便が現れると言う。こちらの説は2020年8月12日を待たずに、今現れても不思議はないと言う。123便の出現に対応できる土台が既に2012年に完成している。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kankou/asobu/kaisuiyoku/rarara/
らららサンビーチは、海水浴と磯遊びが一緒にできる、他には類を見ない新しい人工の海浜施設です。 白い砂浜は、遠浅で水質もよく、正面に広がる海越しの富士山の眺望は絶景です 。
1機目のJAL123便が自衛隊の核ミサイルを後部に受けたのは駿河湾の沼津市のらららサンビーチ付近です。相模湾でソ連軍機Tu-95ベアにより尾翼を損傷し、駿河湾で自衛隊の核ミサイル攻撃を受けたということになる。ソ連のTu-95ベアについては、「564.JAL123便を米軍が撃墜したと言う説は真実か?」などで取り上げました。564はこちら。
↑地図 静岡県沼津市西浦平沢にある「らららサンビーチ」。地図右上の海に張り出した部分が完成済みの123便の出現に対応できる土台です。

↑画像 静岡県沼津市西浦平沢「らららサンビーチ」 Aqours 逢田 梨香子(あいだ りかこ) 右上が123便の出現に対応できる土台と思われます。
(11)口封じの歴史・高天原山事変113 テレビ画面が示す「123便は時空を超えた!!!」

↑画像 1985年8月12日のJAL123便の機内の様子を伝えるテレビ画面
画像のテレビ画面の右上を見ると、「時空ミステリー」と書いてある。テレビ画面が123便が時空を超えた事を示している。
(12)口封じの歴史・高天原山事変114 高天原山事変の舞台

↑画像 高天原山事変の舞台
このエリアの各地に2機の123便の乗客・乗員と戦闘員の遺体が埋められています。詳細は別の記事に書く予定です。
(13)口封じの歴史・高天原山事変115 飯能市のノコギリを振り回しているドラえもんの絵

↑画像 埼玉県飯能市のノコギリを振り回しているドラえもんの絵
高天原山事変の現場を中心にかなり広いエリアに2機の123便の乗客・乗員と戦闘員の遺体が埋められています。また、埼玉県飯能市のノコギリを振り回しているドラえもんの絵の様に123便の惨劇を暗示する場所があります。
「どこでもドア」が出てくるドラえもんはワープした123便を象徴している。「ノコギリを振り回しているドラえもん」は、2機の123便の乗客・乗員を殺害する人々を暗示している。
(7)に書いた通り、1機目の123便も2機目の123便も、着陸時、乗客乗員は全員無事であった可能性が高い。その後、ほとんどの乗客・乗員は虐殺された。川上慶子さんにつきましては、1機目では生存者ですが、2機目では陸上自衛隊宇都宮駐屯地の第十二特科連隊(当時)により殺害されています。

↑画像 グーグルストリートビュー 埼玉県飯能市のノコギリを振り回しているドラえもんの絵 共産党のポスターが貼ってあります
埼玉県飯能市の「埼玉の秘境駅」といわれている「西吾野駅」は、2008年4月27日に当時勤務していた都立小平高校の登山部の山行で訪れたのが現時点で最後の来訪です。その駅から1キロ以上の距離にあるのが、国道299号線沿いの「ノコギリを振り回しているドラえもんの絵」です。
http://genshiohajiki.hatenablog.com/entry/2016/06/21/022934
(14)口封じの歴史・高天原山事変116 川上慶子さんの母・川上和子さんは本当に即死だったのか?
拙ブログはFC2ブログの中の「謎」部門の中の「その他」部門に属している。拙ブログは8月10日付け~12日付け迄「その他」部門1位の後、13日付け14日付けと2位で、8月15日付けで再び1位に返り咲いた。2位だった2日間1位だったサイトが、「JAL123便墜落事故31年目の記録」です。例年この時期だけ上位に進出するサイトです。<「JAL123便墜落事故●●年目の記録」の●●の部分が数年に1度変わります>
★「JAL123便墜落事故31年目の記録」生存者の証言 -川上慶子さんの証言-
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-entry-8.html
「JAL123便墜落事故31年目の記録」の川上慶子さんの証言は、「567.日本航空123便墜落事故の本当の生存者は7名だったのか?」の(6)で取り上げた彼女の証言と食い違いがある。567はこちら。
「JAL123便墜落事故31年目の記録」の川上慶子さんの証言は、「お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。」と言う表現で、川上慶子さんの母・川上和子さんは即死だったと彼女は主張している。
一方、567で取り上げた証言では、「墜落した後、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったと思った。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。」と言う表現で、川上慶子さんの母・川上和子さんは即死ではないと語っている。いったいどちらが正しいのでしょうか?
567を書いた時点では、567で取り上げた母親に関する証言は正しくない感じがしますと書きましたが、567UP後に明らかになった事実をベースに考えると、567で取り上げた母親に関する証言が正しく、「JAL123便墜落事故31年目の記録」の母親に関する川上慶子さんの証言は嘘を言わされている感じがします。「JAL123便墜落事故31年目の記録」が引用している高崎国立病院での証言はテレビカメラが入っていますし。
567で取り上げた証言は島根の祖母宅へ帰ったときに語った内容です。考えてみれば島根の祖母宅の方が、「JAL123便墜落事故31年目の記録」の高崎国立病院での証言に比べて、本音が出やすい環境です。川上慶子さんの母・川上和子さんは即死ではないと現在考えています。もしかしたら川上慶子さんは凄惨な殺害現場を目撃していて、口封じされている可能性があります。
↓動画 矢島舞美

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